終戦直後、ファラダは薬物依存が益々強まり、薬物の代金と生活費を調達するため農場労働者として働いていた。戦争前、ファラダは執筆期間中には父からの金銭援助をあてにしていたが、ドイツ敗北後、父親の援助には依存できなくなった (もしくは意志的に止めた) 。ファラダは『Anton und Gerda』刊行直後、薬物の使用を続ける費用に充てるため雇い主から穀物を盗んだとして、グライフスヴァルトにある刑務所に6ヶ月間服役するようにとの判決を受ける。1926年、3年もたたないあとのこと、再びファラダは薬物やアルコールが原因で雇い主からたて続けに盗みを働き、監獄に収監される。1928年2月、最終的に彼は薬物依存から脱した。
ファラダは1929年にアンナ・"スーゼ"・イゼールと結婚し、いくつかの新聞社での勤務を経て自作の版元でもあった出版社ロボルト (de:Rowohlt Verlag) に職を得た。彼は今やジャーナリズムの世界で正業に就いたといえた。ファラダの小説はこの頃から目立って政治的になり、ドイツの社会的、経済的苦境について論評を始めた。1931年/1930年には、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の農村人民運動や、ノイミュンスターの町における農民の抗議活動とボイコットの歴史を基にした小説『A Small Circus』 (Bauern, Bonzen und Bomben, Peasants, Bosses and Bombs) で目覚ましいほどの成功を遂げた[4]。ジェニー・ウィリアムズ (en:Jenny Williams) はファラダの1930年/1931年の小説について「作者は本作によって、自身が確かな文学的才能を持つというだけでなく、論争を招くのを恐れないことを証明した」と評している[5]。マーティン・シーモア・スミスは「これまでに書かれたなかで地方の反抗にまつわる最も共感的な文章にして鮮やかな一作であり続けている。」として、ファラダにとって最高峰の小説の1冊であると述べている[6]。
1932年に大ヒットを収めた小説『Kleiner Mann - was nun?』 (Little Man, What Now?,『ピネベルク、明日はどうする!?』) は金銭面の逼迫を一気に軽減してくれたが、ナチズムの台頭への不安はそれ以上であり、ファラダは神経衰弱に陥った。彼の作品はナチスに弾圧の口実を与えるほど反動的とはみなされなかったが、彼の作家仲間の多くは逮捕、抑留され、ナチス政権下における作家として彼の将来は暗く見えた。さらにこの不安は、我が子を産後わずか数時間で失うことによっていっそうひどくなった。しかし、イギリスやアメリカ合衆国では小説『Little Man, What Now?』がベストセラーとなっていた。本作は米国ではブック・オブ・ザ・マンス・クラブに選ばれ、さらに1934年にハリウッド映画化された。
1934年の小説『Wir hatten mal ein Kind』 (Once We Had a Child) は、当初、肯定的な批評をもって迎えられていたが、その後、ナチス機関紙フェルキッシャー・ベオバハターで批判された。同年、国民啓蒙・宣伝省は「すべての公共図書館から『Little Man, What Now?』を撤去するよう勧告した」[7]。それと同時に、ファラダに対する当局の行動が書籍の売上に悪影響を与え始め、金銭面で窮地に追い込まれたファラダは1934年にふたたび神経衰弱に陥った。
1937年に出版した小説『Wolf unter Wölfen』 (Wolf Among Wolves) はシリアスな写実的スタイルへの一時的な復帰を印象づけた。ナチスはこの作品をヴァイマール共和国に対する鋭い批判ととらえ、当然ながら承認した。注目すべきことにヨーゼフ・ゲッベルスは本作を「素晴らしい本」と呼んだ[9]。ゲッベルスに作品が認められたことはファラダをかえって厄介な立場に追い込むことになった。ゲッベルスはファラダに反ユダヤ的な小品を書くように提案した。また、啓蒙・宣伝大臣の知遇を得たことがきっかけとなり、国策映画の原案となるべき小説を書く任務がファラダに与えられた。その題材はあるドイツ人家族の運命を1933年に至るまで描くというものだった。
精神病院に拘禁されたファラダは、かつてゲッベルスの要求に対してでっち上げた反ユダヤ小説のプランに1つの希望を見出していた。そのプランとは「19世紀に二人のユダヤ人資本家が起こした有名な詐欺事件」の小説化であった。ナチス政権はこの作品をプロパガンダとして利用するため支援を与えており、真摯に書かれたほかの著作に対する重圧を緩めていた[13]。ファラダはこの作品を口実として、ゲッベルスに与えられた任務を果たすためと称して原稿用紙や資料を入手した。ナチス政権下の精神障害者は身体的虐待や避妊手術、殺害処分に至るまでの残酷な処遇を受けるのが常だったが、ファラダはうまく過酷な扱いから逃れることができた。しかしファラダは実際に反ユダヤ小説を書くことはせず、自らの自堕落な生活について描かれている自伝小説『Der Trinker』 (The Drinker) や、監獄日記『In meinem fremden Land』 (A Stranger in My Own Country) を著した。このような行為は死刑に値するものだったが、露見は免れ、ナチス政権の瓦解が始まった1944年12月にファラダは釈放された。
永年にわたるモルヒネやアルコールなどの薬物摂取で心臓が弱っていたことが原因で、1947年2月にファラダは53歳で死去した。その直前にファラダはドイツ人の夫婦オットー&エリーゼ・ハンペルの実話に基づく反ファシズム小説『Jeder stirbt für sich allein』 (Every Man Dies Alone,『ベルリンに一人死す』) を完成させていた。この夫婦は戦争中、ベルリンで反ナチスのポストカードを作って、配布したため処刑された[14]。ファラダはわずか24日で、ジェニー・ウィリアムズの表現によれば「白熱状態」で『ベルリンに一人死す』を書きあげた。ファラダが死去した数週間後、遺作となった本作が刊行された。彼はベルリンの行政区パンコウに一旦葬られたが、その後、1933年から1944年まで住んでいたカルヴィッチに移された。ファラダの死後、未発表作品の多くが失われ、または売却された。その原因は唯一の相続人だった後妻の無関心と麻薬常用だと見られる。
ファラダは死後、ドイツにおいては人気作家としての名をほしいままにしている。しかし、小説『Little Man, What Now?』がアメリカ合衆国やイギリスにおいて成功を収めていることを除けば、ドイツ国外では数十年にわたって忘れ去られた作家だった。ドイツにおいて『ベルリンに一人死す』は大きな影響を与えており、東西ドイツの両国でテレビ作品も製作された[15]。小説はヒルデガルト・クネフとカール・ラダッツの主演で1976年に映画公開されている[16]。2009年から米国の出版社メルヴィルハウスが『Little Man, What Now?』、『Every Man Dies Alone』、『The Drinker』など複数の著作を出版し始めたことで、英語圏においてファラダの名声は上がっていった。
2010年にメルヴィルハウスははじめての英訳完全版として『Wolf Among Wolves』を刊行した。2016年に『ベルリンに一人死す』がヴァンサン・ペレーズ監督で映画化された(邦題:『ヒトラーへの285枚の葉書』)[17]。
A Stranger in My Own Country: The 1944 Prison Diary (tr. en:Allan Blunden, 2014)
Tales From the Underworld: Selected Shorter Fiction (ed. and tr. Michael Hoffman, 2014)
Note: Translations made by E. Sutton and P. Owens in the 1930s and 40s were abbreviated and/or made from unreliable editions, according to Fallada biographer Jenny Williams.[20]
^A different version of events is given in a London Review of Books review by Philip Oltermann (March 8, 2012, p. 27), apparently based on More Lives Than One: A Biography of Hans Fallada by Jenny Williams (Penguin): "With their first shots, they missed completely. With their second, Necker's bullet missed, but Necker himself was hit in the heart, though he remained conscious enough to beg his friend to shoot him again. Fallada, who was short-sighted, fired three more bullets: one for Necker, two for himself. The first entered his lung, the other narrowly missed his heart. Stumbling back down the path to Rudolstadt, he was found by a forester who took him to hospital. His mother's first reaction to her son attempting suicide and killing his friend in the process was: 'Thank God, at least nothing sexual.'"
^A. Otto-Morris, Rebellion in the Province: The Landvolkbewegung and the Rise of National Socialism in Schleswig-Holstein (Frankfurt/Main 2013) ISBN 978-3-631-58194-0