ヨーハン・クリストフ・フリードリヒ・フォン・シラー(ドイツ語: Johann Christoph Friedrich von Schiller、1759年11月10日 - 1805年5月9日[1])は、ドイツの詩人、歴史学者、劇作家、思想家。ゲーテと並ぶドイツ古典主義(Weimarer Klassik)の代表者である(初期の劇作品群はシュトゥルム・ウント・ドラング期に分類される)。独自の哲学と美学に裏打ちされた理想主義、英雄主義、そして自由を求める不屈の精神が、彼の作品の根底に流れるテーマである。青年時代には肉体的自由を、晩年には精神的自由をテーマとした。彼の求めた「自由」はドイツ国民の精神生活に大きな影響を与えた。
シラーは1785年4月にライプツィヒに到着するが、折りしもケルナーは不在であった。しかし、ケルナーの文芸サークルの仲間たちはシラーをまるで旧知の親友のように手厚くもてなしたため、彼を大いに感動させた。その後シラーはケルナーの住むドレスデンへと赴き、そこでケルナーとの初めての面会をはたす。ケルナーとその周囲の人達は以後、シラーの生活を全面的に支援することになり、シラーはドレスデンのケルナーのもとに身を寄せる。彼らの無償の暖かな歓迎に感激したシラーは、のちにベートーヴェンの『第九』交響曲の歌詩として名を馳せることとなる『歓喜の歌』(An die Freude)を作り、友情の素晴らしさと自らの素直な喜ばしい心情を詠み込んだ。
ケルナーとの交友関係は、精神面でもシラーに与える影響が大きかった。シラーは美学者でもあるケルナーと手紙を頻繁に交換し、それによって美学や文芸理論の素地を養っていき、みずから美学論文を書くにいたった。また、ケルナーは自身も作家であり編集者でもあった。彼はシラーの死後、初の『シラー全集』(1812-15年、全12巻)を出版し、シラーの義理の姉カロリーネ(Caroline von Wolzogen)とともにシラーの伝記を執筆した。
またこの年、ようやく戯曲『ドン・カルロス』が出版され、上演される。この頃シラーは『ヴァレンシュタイン三部作(ドイツ語版、英語版)』(Wallenstein-Trilogie)執筆のために三十年戦争とアルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタインを研究し、それによって歴史家としての名声を獲得した。そして1788年、ルードルシュタットにてイタリア旅行から帰還後間もないゲーテと初めて面会する。しかし、お互いに対して好印象を抱くことのないままに面会はおわる。イタリア旅行を経て古典主義へと方向を転換しつつあったゲーテにとって、シラーは自分の克服してきた時代(シュトゥルム・ウント・ドラング)にいまだしがみついている青い三流詩人として映った。またシラーの目には、当時のゲーテは非社交的で横柄な官僚的人物として映ったのである。それでも双方は互いの才能を否定しあったのではなく、その証拠にシラーは1789年、ゲーテの推挙により、イェーナ(Jena)大学の歴史学教授として招聘される。シラーの歴史講義の就任講演(題目は“Was heißt und zu welchem Ende studiert man Universalgeschichte?”)には、当初用意されていた講義室に到底入りきらないほどたくさんの学生が押し寄せた。そのため急遽、学生ともども大講義室に移動することになり、その日は街をあげての大騒動になったという。経済的に困窮していた当時のシラーの希望とは裏腹に、これは俸給なしの仕事であった(当時は講義を聴いた学生から講演費を徴収するというシステムであった)。また、シラーは本来は歴史学ではなく哲学教授の資格を持っていた。前年に執筆した『オランダ独立戦争史(Die Geschichte des Abfalls der Vereinigten Niederlande)』の成果を買われてのことである。
1790年、シラーはルードルシュタットに旅行した際に知り合ったレンゲフェルト家の次女・シャルロッテ(Charlotte von Lengefeld,1766-1826 )と結婚する。家庭的な幸福を手に入れたシラーであったが、この翌年、病のために床に臥す。12月にはシンメルマン公爵らから金銭支援を申し出られ、5年間にわたり毎年1,000ターラーを受けることになる。
1794年のシラー像
1791年から集中的にカント哲学を研究し、以後それらを発展させて独自の哲学をはぐくむに至る。カントの『純粋理性批判』(Kritik der reinen Vernunft,1781)、『実践理性批判』(Kritik der praktischen Vernunft,1788)、『判断力批判』(Kritik der Urteilskraft,1790)に影響を受けたシラーは、自身の作品にその理論を反映させるとともに、美・道徳的人間などの項目において、さらにカント美学を発展させ、『カリアス書簡』(Kalias oder Über die Schönheit, 1793)、『素朴文学と情感文学』(Über naive und sentimentalische Dichtungen, 1795)、『人間の美的教育について』(Über die ästhetische Erziehung des Menschen, 1795)などを著した。これらの著作はヘーゲル、フィヒテらの美学哲学をはじめ、同時代の詩人フリードリヒ・ヘルダーリンやシュレーゲル兄弟ら率いるドイツロマン派文学に多大な影響を与えた。
1792年、シラーはクロップシュトック、ペスタロッチなどと共に、フランス革命名誉市民に選ばれる。本人にとっては寝耳に水の話であった。処女作『群盗』がもたらした「反抗」の精神を高く評価されてのことであった。このエピソードからも『群盗』が諸外国に与えた力の大きさが窺える。また同年、歴史研究の成果として『30年戦争史(die Geschichte des Dreißigjährigen Krieges)』を書き上げている。
1793年には長男のカール(Karl Friedrich Ludwig Schiller)が生まれる。また翌年、シラーは出版者であるコッタ(ドイツ語版)と知り合い、シラー主宰の『ホーレン』、『詩神年鑑』をコッタ出版から出すことを取り決める。
1799年11月、長女カロリーネが生まれる、同年12月、シラーはヴァイマルへ移住する。これを機にゲーテとの親交がますます深くなる。シラーとゲーテの交際が深まるにつれ、ヘルダーやヴィーラントといったかつての知人達とゲーテとの仲は疎遠になっていった。同年、『鐘の歌(Das Lied von der Glocke)』が完成する。
1800年から1804年、代表的な戯曲が次々に発表される。歴史的題材を扱った『マリア・シュトゥーアルト(Maria Stuart)』(1800)、英仏百年戦争の英雄である少女ジャンヌ・ダルクを題材にした『オルレアンの乙女(die Jungfrau von Orleans)』(1801)、戯曲に合唱を取り入れた『メッシーナの花嫁(die Braut von Messina)』(1803)、スイス独立運動を題材にした『ヴィルヘルム・テル(Wilhelm Tell)』(1804)を執筆する。
第1群はドイツ疾風怒濤時代(シュトゥルム・ウント・ドラングSturm und Drang)のグループに属する。これには、『群盗』、『たくらみと恋』、『フィエスコの反乱』、『ドン・カルロス』である。これら4つの作品は、疾風怒濤時代の理想に燃える青年としてのシラーの、自由への願望と正義心の現れたものである。言葉遣いや筋は情熱的で、感傷主義(Empfindsamkeit)の影響が色濃く出ている。