チェスター (USS Chester , CL/CA-27 ) は、アメリカ海軍 の重巡洋艦 。ノーザンプトン級 の2番艦。艦名はペンシルベニア州 の都市チェスター に由来する[ 注釈 2] 。
艦歴
「チェスター」はニュージャージー州 カムデン のニューヨーク造船所 で起工した。1929年7月3日にJ. T. ブレインによって進水し、1930年6月24日に艦長アーサー・P・フェアフィールド大佐の指揮下で就役、偵察艦隊 に合流する。
大戦前
「チェスター」は1930年8月13日にロードアイランド州 ニューポート を出航しヨーロッパ へ巡航する。バルセロナ 、ナポリ 、コンスタンチノープル 、ファーレロン湾 (英語版 ) 、ジブラルタル を訪問し、10月14日に修理のためペンシルベニア州チェスターに帰還した。偵察艦隊の旗艦 として軽巡洋艦部隊に加わり、1931年3月6日にパナマ運河地帯 で例年の艦隊演習を視察した海軍長官 チャールズ・フランシス・アダムズ を戦艦 「テキサス (USS Texas, BB-35 ) 」から乗艦させた。3月22日にフロリダ州 マイアミ で長官を下ろし、その後フランス海軍 の2隻の巡洋艦を護衛してナラガンセット湾 での演習に向かう。
ニューヨーク海軍工廠 でオーバーホール を受けた「チェスター」は2基のカタパルト が艦中央部に装備された。艦載機と弾薬を搭載したチェスターはハンプトン・ローズ を1932年7月31日に出航し西海岸へ向かう。カリフォルニア州 サンペドロ に8月14日ごろに到着し、通常任務に従事、1934年4月9日に特別任務部隊の旗艦としてサンペドロを出航した。5月31日にニューヨーク に到着し大統領フランクリン・ルーズベルト の閲艦を受け、11月9日にサンペドロに帰還した。
1935年9月25日、「チェスター」は11月15日に行われるフィリピン大統領 就任式およびフィリピン連邦 始政式[ 2] に出席する陸軍長官 ジョージ・ヘンリー・ダーン 一行を乗艦させ、サンフランシスコ を出発した[ 3] 。マッカーサー 将軍は貨客船「プレジデント・フーヴァー (英語版 ) (SS President Hoover ) 」に乗りフィリピン へ直行するつもりだったが[ 4] 、「チェスター」とダーンは日本 に立ち寄った。10月14日[ 5] 、横浜 に入港する[ 6] 。同日、フランス海軍の軽巡洋艦「プリモゲ (Primauguet ) 」も横浜港に到着した。10月15日[ 8] 、ダーンとフランス極東艦隊司令長官は昭和天皇 に拝謁した[ 9] 。10月16日[ 10] 、イギリス海軍 の重巡「ドーセットシャー (HMS Dorsetshire, 40 ) 」が横浜港に到着する。横浜に、外国艦艇の乗組員があふれることになった[ 12] 。10月18日朝[ 13] 、「チェスター」は横浜を出港した[ 注釈 3] 。
11月15日の独立記念式典後、陸軍長官を乗せてフィリピンを出発する。グアム 、ウェーク島 を経由して西海岸にむかった[ 15] 。12月14日にサンフランシスコ に帰還、第4巡洋艦隊と共に通常任務に復帰する。
1936年10月28日にサンフランシスコを出航した「チェスター」は11月13日にサウスカロライナ州 チャールストン に到着、5日後にアルゼンチン のブエノスアイレス 、ウルグアイ のモンテビデオ を親善訪問するルーズベルト大統領 を乗艦させた重巡「インディアナポリス (USS Indianapolis, CA-35 ) 」に護衛艦として随行する。12月24日にサンペドロに帰還し、その後は西海岸で活動し、艦隊演習やハワイ 、アラスカ への訓練巡航を行う。1940年9月23日から1941年1月21日までは東海岸で訓練とオーバーホールを行った。また、「チェスター」は1940年にRCA 社製のCXAM レーダー(初期型) を装備した最初の艦艇の1隻となった。2月3日から真珠湾 を母港とし、ハワイ海域で訓練を行ったほか5月14日から6月18日までの期間は西海岸への航海をおこなった。10月10日から11月14日までの間、マニラ への増援部隊を乗せた輸送船2隻を護衛した。
第二次世界大戦
1941年
チェスターは空母「エンタープライズ (USS Enterprise, CV-6 )」 、重巡「ノーザンプトン (USS Northampton, CA-26 ) 」の第8任務部隊(ウィリアム・ハルゼー 中将)に合流して帰投中に、日本軍による真珠湾攻撃 がおこなわれた。第8任務部隊は、落伍した日本艦隊を一部でも捕まえられるかも知れないという望みのもとに偵察機を発進させたが、これは無駄骨に終わった。第8任務部隊は12月8日夕刻、すべてが煙と油に包まれ戦艦が痛々しく放置された真珠湾に帰投した。翌12月9日、第8任務部隊はオアフ島 北東の捜索に出撃した。12月12日、チェスターの搭載機が潜水艦を爆撃し、駆逐艦 「バルチ (USS Balch, DD-363 ) 」をその現場に誘導。「バルチ」は接触がなくなるまで爆雷攻撃を続けた。
1942年
1942年1月18日~24日まで、「チェスター」は第8任務部隊および空母「ヨークタウン (USS Yorktown , CV-5) 」を基幹とする第17任務部隊(フランク・J・フレッチャー 中将)と合同でサモア への増援部隊の輸送を支援した。その帰途、両任務部隊は日本軍の根拠地の一つであるマーシャル諸島 に一太刀浴びせようと計画した(マーシャル・ギルバート諸島機動空襲 )。この攻撃が成功すると、日本の南方作戦 のスピードが幾分か弱まり、アメリカの士気がいくらか上がると予想された。第8任務部隊は強力な敵が待ち構えていると考えられたクェゼリン環礁 、マロエラップ環礁 に向かい、第17任務部隊はブタリタリ 、ジャルート環礁 、ミリ環礁 への攻撃に向かった。第8任務部隊は目標手前で3つに分かれ、「チェスター」は駆逐艦2隻とともに第8.3任務群(トーマス・M・ショック大佐)を構成。2月1日、第8.3任務群はマロエラップ環礁 タロア島 攻撃をおこなった。これに対し日本側は同地の九六陸攻 8機が「チェスター」に対して爆撃を行なったが、これは命中しなかった[ 19] 。次いで爆装の九六式戦闘機13機が攻撃を行い「チェスター」に命中弾を与えた[ 20] 。「チェスター」は1発の命中弾を受け8名の戦死者と38名の負傷者を出した。2月3日、修理のため真珠湾に帰投した。
「チェスター」はサンフランシスコまでの護衛任務に従事した後、再び第17任務部隊に加わった。第17任務部隊は5月4日にガダルカナル島 ・ツラギ 攻撃を、5月7日にルイジアード諸島 ミシマ島攻撃をおこない、5月8日には珊瑚海海戦 を戦った。5月10日、チェスターに駆逐艦「ハムマン (USS Hammann , DD-412) 」から空母「レキシントン (USS Lexington , CV-2) 」の生存者478人が移され、5月15日にトンガ島 へ運ばれた。
伊176
西海岸 でのオーバーホール 後、「チェスター」は9月21日にヌメア に着き第62任務部隊に加わった。第62任務部隊は10月2日から4日にフナフティ島 上陸を行った。それから、「チェスター」は南に向かい、戦艦「ワシントン (USS Washington, BB-56 ) 」などで構成された第64任務部隊(ウィリス・A・リー 少将)に合流してソロモン諸島 での作戦支援を行うこととなった。10月20日夕刻、第64任務部隊は「ワシントン」(旗艦)および軽巡「アトランタ (USS Atlanta, CL-51 ) 」を中心とする一群と、「チェスター」および重巡「サンフランシスコ (USS San Francisco, CA-38 ) 」、軽巡「ヘレナ (USS Helena, CL-50 ) 」を中心とする一群に分かれた。その約2時間後、チェスターはサンクリストバル島 南東沖で日本海軍の潜水艦「伊176 」に捕捉される[ 注釈 4] 。
「伊176」は「戦艦2隻と重巡2隻および直衛駆逐艦」に対し[ 24] 、夜間において魚雷6本を発射した。魚雷1本が「チェスター」の右舷機関室に命中する。11名が戦死、12名が負傷した。田辺は「チェスター」をテキサス型戦艦 と判断していた[ 24] 。第64任務部隊には駆逐艦「フレッチャー (USS Fletcher, DD-445 ) 」などがいたが、「伊176」は爆雷攻撃を受けたものの[ 24] 、逃げ切った。翌10月21日、「チェスター」は第64任務部隊から外され、駆逐艦4隻の護衛の下エスピリトゥサント島 に向かい、10月23日に到着。10月29日、更なる修理のためオーストラリア のシドニー へ向かった。12月25日、完全なオーバーホールのためアメリカ本土に向かった。しかし、西海岸の海軍造船所が手一杯だったため、ノーフォーク海軍造船所 へ向かった。
1943年
修復された「チェスター」(1943年10月2日)
1943年9月13日、修理を終えた「チェスター」はサンフランシスコに戻り、10月20日までサンフランシスコと真珠湾の間で護衛任務に従事した。11月8日、ギルバート・マーシャル諸島の戦い に参加して真珠湾を出航した。11月21日に潜水艦によって行われたアベママ島 上陸を支援し、タラワの戦い を経てギルバート諸島の戦いに終止符が打たれると、マーシャル 戦線に転じてマロエラップ環礁、タロア島、ウォッジェ環礁 を砲撃。以後、1944年4月25日までマジュロ 沖で対潜、対空哨戒にあたった。
1944年
「チェスター」は5月6日から22日までサンフランシスコで短期間のオーバーホールを行い、5月27日にアラスカ のアダック島 で第94任務部隊に加わった。部隊は6月13日と26日に千島列島 の松輪島 と幌筵島 を砲撃した。それから真珠湾に向かい8月13日に到着した。
8月29日、「チェスター」は重巡「ペンサコーラ (USS Pensacola, CA-24 ) 」「ソルトレイクシティ (USS Salt Lake City, CA-25 ) 」および軽空母「モンテレー (USS Monterey, CVL-26 ) 」とともに第12.5任務群(アレン・E・スミス少将)を構成して出撃し、9月3日にウェーク島 へ砲撃を行った[ 28] 。9月6日、エニウェトク環礁 に到着し、9月24日まで待機の後。10月6日にサイパン島 へ進出。10月9日には南鳥島 を砲撃し、サイパン島に戻った。一連の攻撃は、ハルゼー率いる第3艦隊 が、アメリカ側の次の目標が小笠原諸島 方面等であるかのように装って、日本側の注意を真の目的と違う方向に向けるために行われた。この間、ハルゼーの高速機動部隊は沖縄島 と台湾 を空襲した後、フィリピン に進撃した。チェスターも第38任務部隊 に入り、第38.1任務群(ジョン・S・マケイン 中将)に加わってルソン島 やサマール島 攻撃にあたった。第38.1任務群はレイテ沖海戦 前後は休養と整備のためウルシー環礁 に帰投しつつあったが、栗田健男 中将率いる日本艦隊の出現に伴って、急遽戦場に呼び返された。
レイテ沖海戦終了後、「チェスター」は高速機動部隊の護衛から離れ、11月8日からはウルシー環礁やサイパン島から出撃して硫黄島 や小笠原諸島 に対して砲撃を繰り返した。11月20日早朝には事件もあった。この日もいつものようにサイパン島経由の硫黄島砲撃のため、「チェスター」「ペンサコーラ」「ソルトレイクシティ」および駆逐艦4隻はウルシー環礁の出入り口の一つであるムガイ水道を東に航行中だった。5時23分、水道東口を哨戒中の掃海艇「ヴィジランス (英語版 ) (USS Vigilance, AM-324 ) 」が潜望鏡と航跡を発見し、通報。これを受け、艦隊は水道を出るとともに之字運動を開始。その後、「チェスター」が550m先に、その右舷を航行していた米駆逐艦「ケース (英語版 ) (USS Case, DD-370 ) 」が艦隊に接近しようと南下する潜望鏡を発見。「チェスター」はこれを押し潰そうとスピードを上げた。「潜航艇が魚雷発射のために占位運動中」と判断した「ケース」は、潜望鏡が「チェスター」を向いたままなのを見て体当たりを決意。「チェスター」は衝突を避けるためスピードを落として進路を変えた。5時38分、「ペンサコーラ」の右舷2,000mの距離で潜望鏡を発見。「ペンサコーラ」はこれを回避した。潜航艇は「ペンサコーラ」の前方を潜航通過して隊列の南側に浮上し、左に大きく旋回して「チェスター」の右正横に移動。「ケース」はここにきて面舵一杯、右舷後進一杯、左舷機前進一杯で急速転舵し、浮上航走中の潜航艇の左側から中央部を艦首でへし折り、続いて旋回しながら爆雷を投下し、これを撃沈した。この潜航艇は潜水艦「伊36 」から発進した回天 である可能性が高い。
1945年
「チェスター」の最終形態。前後のマストの形状が大きく変更されている。1945年5月
1945年に入っても、「チェスター」は2月21日まで硫黄島と小笠原攻撃を行った。2月19日の硫黄島上陸 を支援した後、アメリカ本土に向かい、西海岸でオーバーホールを行った。この時のオーバーホールでは、神風 対策で40ミリ機関砲の増設とレーダーの更新が行われ、これと同時に増設した機関砲とレーダー機器類と同等の重量物が除去されることとなった[ 32] 。前後のマストはポートランド級重巡洋艦 のそれと同等の形状になり、不必要なカタパルト は撤去された[ 33] 。
オーバーホールを終えた「チェスター」は、6月21日にウルシー環礁に戻り、6月27日から沖縄周辺の哨戒や掃海活動の支援をおこなった。7月後半、長江デルタ 沖の部隊を支援する部隊に編入された。8月、アリューシャン諸島 への航海をおこなった。8月31日に出航し、9月と10月に行われた大湊 、青森 、函館 、小樽 への上陸に参加した。
戦後
「チェスター」は硫黄島にて復員兵士を乗せ、11月2日にサンフランシスコへ向けて出発し、11月18日に到着した。11月24日から12月17日まではグアムから軍人を運んだ。その後、1946年1月14日フィラデルフィア へ向けて出航し、1月30日に到着した。1946年6月10日に退役し、1959年8月11日に売却された。
「チェスター」は第二次世界大戦 の戦功で11個の従軍星章を受章した。
脚注
注釈
^ 1932年追加
^ 同名艦としてイギリス海軍 の軽巡 チェスター (HMS Chester ) も存在するが、こちらはチェシャー の州都チェスター に由来する。
^ なお貨客船フーヴァー号に乗ったマッカーサー将軍も、18日夕方に横浜に到着したという[ 14] 。
^ 「伊176」潜水艦長は田辺弥八 中佐で、「伊168 」の潜水艦長としてミッドウェー作戦 に参加、海戦 で空母「ヨーウクタウン」と駆逐艦「ハムマン」を撃沈した。その後、新造艦の「伊176」潜を任され、ソロモン諸島の索敵やガダルカナル島への輸送任務に従事していた。
出典
参考文献
アジア歴史資料センター(公式)
『第1053号 10.9.27 英国軍艦「ファルマス」大連寄港に関する件』。Ref.C05034179000。
『「第4015号 10.9.25 米国軍艦「チェスタ-」横浜港入港に関する件/公文備考 昭和10年 D 外事 巻11(防衛省防衛研究所)』。Ref.C05034179400。
関連項目
外部リンク