1935年4月27日に弟のウォーレンが生まれ[2]、一家は1936年にマサチューセッツ州ジャメイカ・プレインのプリンス通り24番地から、同州ウィンスロップのジョンソン大通り92番地へ引っ越した[5]。ウィンスロップは母オーレリアが育った町で、実家があった。プラスの母方の祖父母、ショーバー一家が住んでいた区画はポイント・シャーリーといい、プラスの詩の中でもその地名への言及がある。ウィンスロップに住んでいた8歳のころに、プラスは『ボストン・ヘラルド(英語版)』紙の児童部門に詩を投稿、初めて公刊された[6]。このときから数年間、プラスは地元の雑誌や新聞に幾つもの詩を投稿した[7]。11歳のとき、プラスは日記を付け始めた[7]。書くことに加えて、1947年には彼女の描いた絵に対して The Scholastic Art & Writing Awards から賞が贈られ、プラスは芸術家としての有望性を早くから示していた[8]。
父オットーは、糖尿病を放置していたせいで片足を切断せざるを得なくなり、その傷の合併症により、シルヴィアが満8歳の誕生日を迎えて10日ばかり経った日の1940年11月5日に亡くなった[4]。オットーは非常に親しい友人を肺癌で失ったすぐ後に病を得た。彼は友人の症状と自分の症状を比較して、自分も肺癌に違いないと思い込み、進行して重篤になるまで糖尿病の治療を受けなかった。プラスは、父の死は一種の自殺であり、自分は意図的に見捨てられたのだと感じた[9]。彼女はユニテリアン派キリスト教徒として育てられていたが、父の死の後、一時的に信仰を保てなくなった。宗教に対する信頼と反発という相反する思いは生涯続いた[10]。父のなきがらはウィンスロップ墓地に葬られた。プラスはのちに父の眠る墓を訪れ、そのときの閃きを元に Electra on Azalea Path という詩を書いている。彼女はその後の精神的な苦しみを、父の死が原因と説明する傾向があり、成人後の作品にも、この出来事の影響が見られる[9]。
1950年、プラスはスミス大学に進学、成績は優秀だった。「世界は熟したスイカみたいに私の足元にパックリ開いている」と母に手紙を書いた[12]。校内新聞の The Smith Review を編集し、大学3年目の夏休みには皆が憧れる雑誌『マドモアゼル(英語版)』のゲスト編集者の地位を射止めた。そのため、その年の夏休みは丸ひと月、ニューヨークに滞在した[2]。ところが『マドモワゼル』でのインターンは当初思い描いていたものとは異なる体験であった。そしてこれが悪循環の始まりだった。プラスは編集者がウェールズの詩人ディラン・トマスとの打合せの場に同席させてくれなかったことに激怒した。ディラン・トマスはプラスのお気に入りの詩人であった。ボーイフレンドの一人には「死んでもいいくらい好き」と言ったこともある。彼女はトマスに会えることを期待して、丸二日間、チェルシーホテルとホワイト・ホース・タヴァーン(英語版)の前をうろうろした。しかし、トマスは既に帰った後だった。数週間後、プラスは自分が自殺をする勇気があるかどうか確かめるために、自分の両足をナイフでざっくり切った[13]。この大学3年の夏にはプラスの身に多くの出来事が起き、後に彼女はこのときに経験したエピソードを小説『ベル・ジャー』の中で用いている[14]。この夏にはハーヴァード大学の作家養成講座にも応募したが、入学を許可されなかった[12]。また、うつ病治療のため電気けいれん療法を受けたが、その後の1953年の8月下旬、実家の床下で母の睡眠薬を過剰摂取し、自殺を試みた[15]。この事件はカルテに初めて記録が残る自殺未遂となった[15]。
I happened to be at Cambridge. I was sent there by the [US] government on a government grant. And I'd read some of Ted's poems in this magazine and I was very impressed and I wanted to meet him. I went to this little celebration and that's actually where we met... Then we saw a great deal of each other. Ted came back to Cambridge and suddenly we found ourselves getting married a few months later... We kept writing poems to each other. Then it just grew out of that, I guess, a feeling that we both were writing so much and having such a fine time doing it, we decided that this should keep on.
Nights, I squat in the cornucopia
Of your left ear, out of the wind,
Counting the red stars and those of plum-color.
The sun rises under the pillar of your tongue.
My hours are married to shadow.
No longer do I listen for the scrape of a keel
On the blank stones of the landing.
“
”
from "The Colossus", The Colossus and Other Poems, 1960
プラスの自殺は意図的なものではなかったという説がある。階下の住人はプラスに自殺当日の朝、何時にお出かけですかと尋ねられていた。また、「ドクター・ホーダーに電話してください」と記された書付が、医師の電話番号と共に残されてもいた。プラスは本当に自殺するつもりではなかったとする説はこれらの点に留意して、階下の住人が書付を目にするであろう、ちょうどその時間にプラスはガスの栓をひねった、としている[33][注釈 12]。しかしながら、プラスの親友であったジリアン・ベッカー(英語版)は、プラスの伝記 Giving Up: The Last Days of Sylvia Plath において、「検死を行った警察官によると、プラスはガスオーブンの中に自分の頭を深く差し入れていて、本当に死ぬつもりだったのだろう」と書いている[34][注釈 13]。ホーダー医師も彼女の自殺の意志は固かったと考える。同医師は「隅々まで準備が行き届いたキッチンを見れば、彼女が理性を欠いた衝動に突き動かされたとしか解釈できないだろう」と主張する[32][注釈 14]。プラスは生前、絶望の感情を「わたしの心臓をわしづかみにする梟の爪」のようなものと言い表したことがある[35]。プラスの友人で文芸批評家のアル・アルヴァリーズ(英語版)は、1971年に書いた自殺に関する本の中で、彼女の自殺は助けを求める叫びであったが、それには誰も決して答えることのできないものとなってしまったと述べた[32][36][注釈 15]。
シルヴィア・プラスは8歳のときから詩を書いた。彼女の最初の詩は『ボストン・トラヴェラー(英語版)』誌に掲載された[2]。それからスミス大学に入学するまでの間に50編を越える短編を書いており、雑誌に掲載されたものもたっぷりあった[38]。スミス大学では英語を専攻し、優秀なライティングで主要な賞を総取りして奨学金も得た。在学中の夏休みには雑誌『マドモワゼル』のゲスト編集者に抜擢された。卒業の年には Two Lovers and a Beachcomber by the Real Sea の詩でグレイスコック賞を受賞した[注釈 16]。ケンブリッジ時代は学内報『ヴァーシティ』に投稿した。卒業後は、 Yale Series of Younger Poets Competition の詩人ランキングに何度も名が挙がり、Harper's Magazine や The Spectator、Times Literary Supplement といった印刷媒体に作品が掲載された。こうした1960年までの創作活動は、同年後半に処女詩集 The Colossus and other poems がハイネマン社(英語版)から出版されるというかたちに結実した。The Colossus が英米語圏の大手の雑誌に載った作品ばかりを集めたものであり、『ザ・ニューヨーカー』誌が作品掲載の契約を結ぶほど[39]、プラスは生前から著名ではあったが、プラスの文学的評価を不動のものとしたのが、没後の1965年に出版された詩集『エアリエル』である。
1971年には『エアリエル』の元になった手書きの遺稿から抽出された未発表の詩9編を含む二分冊の詩集『冬の木立』(Winter Trees)と『川を渡る』(Crossing the Water)がイギリスで出版された[29]。プラスの詩人仲間であったピーター・ポーター(英語版)は『ニュー・ステイツマン(英語版)』誌上で次のように書いた。
Crossing the Water is full of perfectly realised works. Its most striking impression is of a front-rank artist in the process of discovering her true power. Such is Plath's control that the book possesses a singularity and certainty which should make it as celebrated as The Colossus or Ariel.
Within a week of her death, intellectual London was hunched over copies of a strange and terrible poem she had written during her last sick slide toward suicide. 'Daddy' was its title; its subject was her morbid love-hatred of her father; its style was as brutal as a truncheon. What is more, 'Daddy' was merely the first jet of flame from a literary dragon who in the last months of her life breathed a burning river of bile across the literary landscape. [...] In her most ferocious poems, 'Daddy' and 'Lady Lazarus,' fear, hate, love, death and the poet's own identity become fused at black heat with the figure of her father, and through him, with the guilt of the German exterminators and the suffering of their Jewish victims. They are poems, as Robert Lowell says in his preface to Ariel, that 'play Russian roulette with six cartridges in the cylinder.'
When Sylvia Plath’s Ariel was published in the United States in 1966, American women noticed. Not only women who ordinarily read poems, but housewives and mothers whose ambitions had awakened [...] Here was a woman, superbly trained in her craft, whose final poems uncompromisingly charted female rage, ambivalence, and grief, in a voice with which many women identified.
シルヴィア・プラスの詩には、典型的に現れる言葉のモチーフ(月、血、病院、胎児、頭蓋骨など)がある。これらは初期の作品のころから見られるものであるが、彼女が憧れていたディラン・トマス、ウィリアム・バトラー・イェイツ、マリアン・ムーア(英語版)といった詩人の模倣である場合がほとんどである[38]。1959年後半、プラスとヒューズがニューヨーク州のヤドウの作家コロニーにいたときに彼女が書いた7節に分かれる詩 "Poem for a Birthday" には、テオドール・レートケ(英語版)の “Lost Son” のシーケンスの残照が感じ取れるが、そのテーマは彼女がはたちの時に経験したトラウマのような自己崩壊と自殺未遂を扱っており、プラスに独自の主題となっている。1960年以後の作品は死の影もしくは父親の影がちらつく、閉塞的で超現実的な景観を呈する作風へと移行した。詩集『コロッサス』は死と贖いと再生の主題で一貫している。ヒューズがプラスの許から去った後の2ヶ月足らずの間にプラスが生み出した40編の詩には、怒り、絶望、愛、復讐が主題として書かれている。この短期間に集中して書かれた40編こそ、プラスが死後に獲得した名声のもととなった[38]。
詩集『エアリエル』に収められた詩は初期作品と一線を画し、より個人的な葛藤の詩的言語化の世界へと入り込んでいる。プラスは生前のインタビューで、ロバート・ロウエルが1959年に書いた詩集 Life Studies に強い影響を受けたとして引用しており、ロウエルの詩作品が『エアリエル』における作風の変化に何らかの役割を果たした可能性がある[46]。プラス自死後の1966年に出版された『エアリエル』のインパクトは劇的であった[46]。『エアリエル』には「チューリップ」「パパ」「レイディ・ラザルス」といった作品において、精神的に悪化した状態を暗鬱かつ自伝的に描写する作品が含まれており、プラスの作品群が「告白詩」のジャンルに属するという見解がよく見られる。また、それらはロウエルやスノウドグラス(英語版)といった同時代の詩人とよく比較される。シルヴィア・プラスの親友であったアル・アルヴァリーズは、彼女について非常に多くのことを書いているが、特に後期の作品については次のように語る。
Plath's case is complicated by the fact that, in her mature work, she deliberately used the details of her everyday life as raw material for her art. A casual visitor or unexpected telephone call, a cut, a bruise, a kitchen bowl, a candlestick—everything became usable, charged with meaning, transformed. Her poems are full of references and images that seem impenetrable at this distance, but which could mostly be explained in footnotes by a scholar with full access to the details of her life.
Sylvia and I would talk at length about our first suicide, in detail and in depth—between the free potato chips. Suicide is, after all, the opposite of the poem. Sylvia and I often talked opposites. We talked death with burned-up intensity, both of us drawn to it like moths to an electric lightbulb, sucking on it. She told the story of her first suicide in sweet and loving detail, and her description in The Bell Jar is just that same story.
プラスの書いた手紙が1975年に出版された。収録した手紙の選別と編集は母のオーレリア・プラスが行った。書簡集 Letters Home: Correspondence 1950–1963 の出版は、アメリカにおける『ベル・ジャー』の出版が巻き起こした大きな反響に応えるという意味合いが一部に込められていた[29]。シルヴィア・プラスは11歳のときから日記を付け始め、自殺するその日までずっと続けていた。1950年のスミス大学1年生のときから始まる日記集が、1982年に The Journals of Sylvia Plath として出版された。この日記集はテッド・ヒューズが助言的編集を行った上でフランシス・マカルー(Frances McCullough)が編集した。同年1982年にスミス大学がプラスの日記の残りを取得したが、ヒューズはその内の2日分の日記を、プラスの没後50周年の日に当たる2013年2月11日まで封印した[54]。
ヒューズは晩年にプラスの日記をできるだけ完全な形で出版する作業を始め、亡くなる少し前の1998年に上述の2日分の日記の封印を解き、プラスの二人の子ども、フリーダとニコラスに受け継がせた。子どもたちはその作業をカレン・キューキル(Karen V. Kukil)に託した。キューキルは1999年12月に編集を終え、2000年にアンカーブックス社から The Unabridged Journals of Sylvia Plath として出版した。こうして、マカルー編集の1982年版と比較して1.5倍を超える一次資料が新たに公開された[54]。アメリカの作家ジョイス・キャロル・オーツはこの出版を「文学におけるすばらしいできごと」と歓迎したが、ヒューズは日記の取り扱いに関して厳しい批判に曝されることになった。ヒューズはプラスの日記の最後の一冊を燃やしたと述べており、それには1962年の冬から彼女の自死の日に至るまでの日記が含まれていた。1982年版の序文において、ヒューズは次のように書いている[2][55]。
I destroyed [the last of her journals] because I did not want her children to have to read it (in those days I regarded forgetfulness as an essential part of survival).
What I've done is to throw together events from my own life, fictionalising to add colour – it's a pot boiler really, but I think it will show how isolated a person feels when he is suffering a breakdown.... I've tried to picture my world and the people in it as seen through the distorting lens of a bell jar.
プラスは『ベル・ジャー』が「わたしが過去から自分を解き放つために、書かなくてはならなかった自伝的習作」("an autobiographical apprentice work which I had to write in order to free myself from the past".)であると述べた(Plath Biographical Note 293)[58]。プラスは大学3年生のときにイエール大学の4年に在籍していたディック・ノートンという名前の学生とデートした。ノートンは『ベル・ジャー』の中ではバディー(Buddy)という登場人物のモデルとなった人物であり、結核をわずらい、ニューヨーク州のサラナック湖(英語版)畔にあるサナトリウムで療養した。プラスはノートンを見舞いにサナトリウムを訪れたとき、ついでにスキーを楽しんだが、足の骨を折ってしまった。この事故の経験は『ベル・ジャー』の中の一エピソードとして生かされた[59]。
ヒューズが広く非難を受け続けていた1989年、『ガーディアン』誌と『インデペンデント』誌の読者投稿欄を戦場にして、論争が持ち上がった。きっかけは1989年4月20日、『ガーディアン』にヒューズが書いた記事「シルヴィア・プラスが安息を得て眠るべき場所」("The Place Where Sylvia Plath Should Rest in Peace")だった。ヒューズはプラス幻想の行き過ぎにより言論の自由が奪われているとして、次のように書いた。
In the years soon after [Plath's] death, when scholars approached me, I tried to take their apparently serious concern for the truth about Sylvia Plath seriously. But I learned my lesson early. [...] If I tried too hard to tell them exactly how something happened, in the hope of correcting some fantasy, I was quite likely to be accused of trying to suppress Free Speech. In general, my refusal to have anything to do with the Plath Fantasia has been regarded as an attempt to suppress Free Speech [...] The Fantasia about Sylvia Plath is more needed than the facts. Where that leaves respect for the truth of her life (and of mine), or for her memory, or for the literary tradition, I do not know.
^原文:Plath says that it was here that she learned "to be true to my own weirdnesses."[21]: 520–521 訳注:weirdness は可算名詞として使う場合、"The result or product of being weird." を意味する。
^"According to Mr. Goodchild, a police officer attached to the coroner's office ... [Plath] had thrust her head far into the gas oven... [and] had really meant to die."
^"No one who saw the care with which the kitchen was prepared could have interpreted her action as anything but an irrational compulsion."
^Al Alvarez, a poet, editor and literary companion of Hughes and Plath, spoke, in a BBC interview in March 2000, about his failure to recognize Plath's depression. Alvarez says he regretted his inability to offer emotional support to Plath: "I failed her on that level. I was thirty years old and stupid. What did I know about chronic clinical depression? [...] She kind of needed someone to take care of her. And that was not something I could do."
^According to Hughes, Plath left behind "some one hundred thirty [typed] pages of another novel, provisionally titled Double Exposure. That manuscript disappeared somewhere around 1970."[61]
^"That's the end of my life. The rest is posthumous."[63]
^"Even amidst fierce flames the golden lotus can be planted."
^"did not want her children to have to read it."[73]
^ abcdefghijklmnopqrsSally Brown and Clare L. Taylor, "Plath, Sylvia (1932–1963)", Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, 2004
^ abcSteven Axelrod. “Sylvia Plath”. The Literary Encyclopedia, 17 Sept. 2003, The Literary Dictionary Company (April 24, 2007), University of California Riverside. 2007年6月1日閲覧。
^ abKibler, James E. Jr (1980) Dictionary of Literary Biography, 2nd, volume 6; American Novelists Since World War II. Bruccoli Clark Layman Book, University of Georgia. The Gale Group pp. 259–264
^ abcStevenson, Anne (1996). "Plath, Sylvia". In Ian Hamilton (ed.). The Oxford Companion to Twentieth-Century Poetry in English (print 1st ed.). Oxford University Press. ISBN9780192800428。
^ abcBadia, Janet; Phegle, Jennifer (2005). Reading Women: Literary Figures and Cultural Icons from the Victorian Age to the Present. University of Toronto Press. ISBN0-8020-8928-3 p252