プリンスは、このバンドとともに、1979年にコロラド州で、実験的にレコーディングを行った。このレコーディングは、公式には名前がついていなかったが「The Rebels」と呼ばれている。これはあくまでも、より多くの音楽を生み出すためのサイドプロジェクトであった。このレコーディングでは、グループとしての取り組みが重視されており、リード・ボーカルをシモン、ディッカーソン、チャップマンがとっていた。この録音は、理由不明のまま長い間お蔵入りとなっていたが、このうち2曲だけは、後にプリンスによって他のアーティストに提供され、再録音されて発表された。「You」は「U」と改題され、ポーラ・アブドゥルのアルバム『スペルバウンド(Spellbound)』に収録された。また、「If I Love U 2nite」は、ミカ・パリス(Mica Paris)と、後にプリンスの妻となったマイテ・ガルシア(Mayte Garcia)がそれぞれ吹き込んでおり、パリスのバージョンが初出となるが、ガルシアのバージョンは、後にプリンスが再録音している。
ザ・レヴォリューション以前
1979年から翌1980年にかけて行われたプリンスの最初のツアー「Prince Tour」に続く2つのツアーで、バンドはメンバーを2回の入れ替えた。The Wayというキリスト教系の新興宗教の信者だったチャップマンは、性的に露骨すぎるプリンスの曲の歌詞を歌うことや、「Head」という曲の演出でステージで思わせぶりにプリンスとキスすることが、自分の宗教的信条に反するとして、1980年にバンドを抜けた。バンドをやめる直前、彼女が The Way の仲間と旅行に行きたいとプリンスに話したところ、プリンスは、その旅行はやめて直前に決まったリハーサルにきちんと参加するよう求めた。長い話し合いが行われた末に、チャップマンはグループを脱退し、代わってリサ・コールマン(Lisa Coleman)が参加することになった[5]。彼女は、ふだんはファースト・ネームの「リサ」だけを名乗っていた。この頃から、もうひとりのキーボードであるフィンクは、ステージで外科医の手術服を着るようになり、「ドクター」フィンクと呼ばれるようになる。それまでフィンクは、白黒縦縞の囚人服をステージで着ていたのだが、リック・ジェームスのバンド・メンバーが同じ格好をしていたことがわかり、同趣向を避けるためプリンスがフィンクに「何かほかのアイデアはないのか?」と訊ねたところ、「医者の格好はどう?」となって、プリンスがこのアイデアを気に入り、ドクター・フィンクが誕生することになった。
翌1981年、前年から続いていたツアー「Dirty Mind Tour」の終了後、ベースのアンドレ・シモンがバンドを抜けると言い出した。プリンスが父親の元から独立した際にシモンの家族が住居を提供したほど、シモンはプリンスと私生活でも親しかったが、この脱退はプリンスに様々な意味で悲しみを与えた。シモンはスタジオでの関与が少なく、プリンスの音楽への貢献を明記されることがなかった。また、シモンは、自分自身が成功したいという思いもあり、プリンスに対して苦々しい思いも持っていた。後にシモンは、自分のアイデアの多くをプリンスが盗み、プリンスに近いバンド The Time に使ったと主張したり、プリンスのアルバム『Controversy』に収められた「Do Me, Baby」のベースラインを作ったのは自分だと主張したりした[5]。シモンは独立後、ジョディ・ワトリーをプロデュースし成功し、プライベートでもジョディと結婚し公私共にパートナーとなった(現在は離婚している)。結局、シモンに代わってマーク・ブラウン(Mark Brown)が新たに加入することになったが、その際、プリンスは彼のステージネームをブラウンマーク(Brownmark)と名付けた。
1982年に発表されたプリンスにとって4枚目のアルバム『1999』のカバーには、「プリンス・アンド・ザ・レヴォリューション」と記されている。バンドのメンバーは、本当にバンド名が付くのか気になっていたが、プリンスは、グループを積極的にザ・レヴォリューションと呼ぶことは躊躇していた。その背景には、デズ・ディッカーソンがバンドを辞めたいと言い出したことがあった。1982年から1983年にかけてのツアー「1999 Tour」の終了後、ディッカーソンは信仰上の事情で脱退し、リサの幼なじみだったウェンディ・メルヴォワン(Wendy Melvoin)が代わって参加した。プリンスはディッカーソンに、あと3年はバンドにいてほしいと頼んだが、ディッカーソンはそこまで関わっていく意志がなかった。プリンスは、ディッカーソンとの契約を破棄せずに(ディッカーソンの脱退にもかかわらず)一定の賃金支払いを続けると約束し、その通り実行した。ディッカーソンは、その後、キリスト教関係の独立系レコード・レーベル Star Song で働くことになった。ウェンディ&リサ(Wendy & Lisa)のコンビは、その後、プリンスと強い結び付きをもち、バンドの解散までプリンスの生み出す音楽に大きな影響を与え続けた。それまでのR&B/ファンク色が強かったプリンスの表現は、ロック、ポップ、クラシックの要素を帯びて、より多様な姿をとるようになった。
ツアーのステージにおける華々しいパフォーマンスとは裏腹に、ザ・レヴォリューションの内部では不満がくすぶり、沸点に達しようとしていた。当初からのメンバーの一部は、バンドに新たに加わったメンバーを快く思っていなかった。双子の妹スザンナの参加に嫌気がさしていたウェンディは、「私はこの子と一緒に子宮に入っていたのに、ステージまで一緒にいなきゃいけないわけ?」と発言したとされる。ウェンディとリサは、プリンスがザ・ボディガーズとステージ上で演じるスラップスティック風のドタバタを、音楽とバンドを軽蔑するもののように感じ、気に入らなかった。「Hit N Run - Parade Tour」が始まる直前には、ブラウンマークと、ウェンディ&リサが、それぞれバンドを辞めると言い出した。プリンスはボビー・Zを空港に送り込んで、飛行機に乗ろうとしていたウェンディとリサを、文字通り捕まえ連れて帰らせた。プリンスはブラウンマークに高給の約束したが、ツアーの間、ブラウンマークは週給3000ドルという、ほかのツアー・バンドの給料と大差のない金額しか得られなかった。ブラウンマークは、当時ツアーを始めようとしていたスティーヴィー・ニックスのベーシストとしての仕事をオファーされていたが、報酬面で魅力的であったにもかかわらず、そちらを断っていた。しかし、ブラウンマークによれば、プリンスが「例の金額」を最後まで支払うことはなかったという。ツアーの最終公演となった横浜で、プリンスはアンコールの最後の曲「Sometimes It Snows In April」を終えると、使用していたギターの弦をすべて切ってしまった。
マット・フィンクは、1991年までプリンスと行動を共にした。しかし、ザ・タイムからジミー・ジャムとテリー・ルイスが抜けた時と同じように、別のバンドのプロデュース作業で忙しかったフィンクがロック・イン・リオ(Rock in Rio)の2日間の日程に参加できないとプリンスに告げたところ、彼はトミー・バーバレラ(Tommy Barbarella)に差し替えられてしまった[5]。もっともフィンクは、2001年のインタビューでは、バンドとしての活動に飽きが来ていたとも述べている。プリンスが映画『Graffiti Bridge』を撮ったとき、プリンスはフィンクに「バンドをリハーサルして」ほしいと依頼したが、「映画の中には(フィンクを)入れようがないんだ」とも告げた。それまでのヒット曲を中心としたツアー「Nude Tour」を終えた後、フィンクは、ビデオ・ゲームの音楽を書いたり、テレビ通販用のコンピレーション・アルバムなどを扱う K-Tel Records で働くようになり、ミネアポリスを離れた。かつてのバンドの仲間たちとは違い、フィンクはすぐにはソロ作品を発表しなかった。フィンクのソロ作品は2001年までリリースされなかった。
^ abGoldsmith, Melissa U. D.; Willson, Palge A.; Fonseca, Anthony J. (2016). The Encyclopedia of Musicians and Bands on Film. Lanham, Maryland: Rowman & Littlefield. p. 227. ISBN978-1-442-26987-3