ゲオルギウ=デジは、ニキータ・フルシチョフによる脱スターリン化政策という新たな一連の行為に対して、当初は動揺を見せていた。その後、ゲオルギウ=デジは1950年代後半にワルシャワ条約機構(The Warsaw Treaty Organization)と経済相互援助会議(The Council for Mutual Economic Assistance)において、ルーマニアが半自主的な外交・経済政策の事業計画立案者となり、とりわけ東ヨーロッパの共産主義ブロック全体に対するソ連からの指示に叛く形で、ルーマニアにおける重工業の創設を主導した(インドとオーストラリアから輸入した鉄資源を活用する形でガラーツィに新しい大規模な製鉄所を建設する)。皮肉なことに、ゲオルギウ=デジ政権下のルーマニアは、かつてはソ連に最も忠実な衛星国の一つと考えられていたため、「外交政策の寛大さと『自由主義』が国内の抑圧と結び付いた様式を最初に確立したのは誰か」が忘れられる傾向にある[23]。このような価値体系に基づいた措置は、「ソヴロム」の追放や、ソ連とルーマニアの共通文化事業の縮小により、明らかにされた。
また、ゲオルギウ=デジ政権下のルーマニアは、アメリカ合衆国を含む第一世界とも外交関係を結んだ。このような措置は、1963年にルーマニアを「友好的な共産国家」として見るようになっていたリンドン・B・ジョンソン(Lyndon B. Johnson)が大いに奨励した。また、1964年は多くの政治犯が釈放された年でもあった。
ルーマニアの西側に対する外交政策は、対ソ連政策とも密接に繋がっていた。ルーマニアは、ソ連からの独立を強く主張することにより、西側との通商を振興できた。ゲオルギウ=デジはこのことを理解しており、それゆえにルーマニアの主権を強調していた。1955年12月23日に開催された第二回ルーマニア共産党大会において、ゲオルギウ=デジは5時間に及ぶ演説を行い、その中で、ルーマニアは外国(→ソ連の名を出して)の利益への従属を強いられるのではなく、自国の利益を守る権利がある趣旨や、国家共産主義の理念を強調した。また、ゲオルギウ=デジは西側との貿易の着手についても話し合った。1956年、ゲオルギウ=デジはルーマニアと西側諸国との対話を深めるため、新しい駐アメリカ合衆国特命全権大使に、国務長官のジョン・フォスター・ダレス(John Foster Dulles)、さらには合衆国大統領のドワイト・D・アイゼンハワー(Dwight D. Eisenhower)の両方に謁見するよう指示を出した。その後、アメリカ合衆国国務省はブカレストに図書館を設置し、アメリカとルーマニア両国の交流の深化に関心を示した。
こうしてゲオルギウ=デジは、西側との貿易を拡大し、ルーマニアを、ソ連圏の国として初めて、完全に独立した形で西側と貿易ができる国に変えた。ゲオルギウ=デジは、国家主権政策でもって西側諸国におけるルーマニアの人気を高めた。アメリカの国民的な出版物の記事は、1950年代前半のルーマニアにおける人権侵害や抑圧についての報道から、1950年代半ばから1960年代初頭にかけてのルーマニアで脱スターリン化が進む趣旨の記事に移行していった。1960年代初頭、『タイムス』は、ゲオルギウ=デジ治下のルーマニアが西側諸国との経済的な結びつきを強めている趣旨もしばしば報道した。ゲオルギウ=デジによるルーマニアの対外関係、とりわけ西側諸国との関係の拡大の取り組みの成功は、1965年3月に行われたゲオルギウ=デジの葬儀に、シャルル・ド・ゴール(Charles de Gaulle)が遣わしたフランスの全権公使を含む33の外国代表団が出席していた点でも明らかであった。ゲオルギウ=デジによる政策は、その後任者であるニコラエ・チャウシェスクがルーマニアの新たな道筋をさらに推進するための段階のお膳立てに繋がった。
死
1965年3月19日、ゲオルギウ=デジは、ブカレストにて肺癌で亡くなった[26]。ゲオルゲ・アポストルは、自分が「ゲオルギウ=デジ直々に後継者に指名された」と主張していたが、閣僚評議会議長のイオン・ゲオルゲ・マオレル(ルーマニア語版)はアポストルに対して敵意を抱いており、アポストルが権力を掌握するのを阻止し、代わりにゲオルギウ=デジが子飼いにしていたニコラエ・チャウシェスクに党指導部をまとめさせた。1978年にアメリカ合衆国に亡命したセクリターテの幹部、イオン・ミハイ・パチェパ(Ion Mihai Pacepa)によれば、チャウシェスクが「クレムリンの最高指導部が殺した、あるいは殺そうとした10人の国際的指導者について語った」といい、その中にはゲオルギウ=デジの名も含まれていた[27]。
死後、ブカレストにある「Parcul Libertății」(「自由公園」、現在の「カロル一世公園」,Parcul Carol I)の霊廟に埋葬された。ルーマニア革命後の1991年に彼の遺骸が掘り起こされ、シェルバン・ヴォーダ墓地に再び埋葬された[28]。ブカレスト工科大学(ルーマニア語版)は、ゲオルギウ=デジに敬意を表し、1992年まで大学名を「Institutul Politehnic 'Gheorghe Gheorghiu-Dej' București」としていた。また、ロシアにある都市、リースキ(Лиски)は、ゲオルギウ=デジに敬意を表して「Георгиу-Деж」と名付けられた。
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