ケーシー 高峰(ケーシー たかみね、1934年〈昭和9年〉2月25日 - 2019年〈平成31年〉4月8日)は、日本のタレント・俳優。本名:門脇 貞男(かどわき さだお)。
白衣姿で黒板やホワイトボードを用いる医事漫談の創始者。愛称は「ドクター」。
来歴・芸風
山形県最上郡最上町出身。母方は先祖代々医師の家系であり、母・シヅエは生涯現役で診察を務めた産婦人科医であった。また、父は海外出張の多い商社マンで、レコードの収集家だった[1]。兄弟をはじめ、一族の多くが医師・歯科医師である[2][3]。
山形県立新庄北高等学校卒業[4]後、家業を継ぐべく日本大学医学部に進学させられたが、教授と相容れなかった(本人曰く、風貌を理由にいじめを受けた)ことと、モダン・ジャズやラジオに耽溺して学業がおろそかになったことから、日本大学芸術学部に転部[5]。同級生には宍戸錠らがいる。
1957年の日大卒業後、本格的に芸人を志し、漫才師・大空ヒットに弟子入り[3][6](一部資料では、リーガル天才に師事したとしている[4][5][7])。当初「大空青天」を名乗り、兄弟子の大空曇天と漫才コンビ「大空晴天・曇天」を組むも解散。次いで弟弟子の大空かなた(後の横山あきお)と漫才コンビ「大空はるか・かなた」を組み、自らは「はるか」を名乗った。コンビは南千住の「栗友亭」を拠点に[6]そこそこ売れたものの、解散。
司会業に転身して「坊られい」と改名。ジャズ喫茶を舞台に活躍した。「坊られい」という芸名は、ドメニコ・モドゥーニョのヒット曲『Nel blu dipinto di blu(イタリア語版)』のサビの歌詞で英題でもある「ヴォラーレ(英語版)[注 1]」と、「ぼられた」に由来する。
1968年、「ケーシー高峰」に改名し、漫談家に転身した[3]。名は自身が医師志望であった過去を活かし、医師が主人公のテレビドラマ『ベン・ケーシー』からとり、屋号の「高峰」は、ケーシーの少年時代、地元の最上町に映画『馬』の長期ロケでやって来て、一目惚れした女優の高峰秀子[8]の名字から名付けた(のちに天才・秀才門下の芸人がケーシー門下に移った際、自身の屋号「高峰」を名乗らせている)。ケーシーは「グラッチェ(イタリア語で、ありがとう)」「セニョール(スペイン語による男性に対する呼び方)」「セニョリータ(同上による女性に対する呼び方)」など、連発する謎のラテン系あいさつは当時の流行語にもなった。『大正テレビ寄席』のセミレギュラー出演などを通じて、お茶の間の爆発的人気を博した。1969年には演芸番組『おいろけ寄席』(東京12チャンネル(現:テレビ東京))の司会に起用された[4]。
このかたわら、1970年代末以降、ピンク映画でヤブ医者役(必ず性病科か産婦人科)を演じるなど、コミックリリーフ担当の俳優として多くの作品に出演する。『夢千代日記』(1981年、NHK)では ‘無免許の医師-木原’を演じシリアスな演技を見せた。また、『木更津キャッツアイ』(2002年、TBS)では‘地元の有力者-小峰’を演じ、自身の往年のギャグを披露した。[要出典]
俳優業でノーマルな役柄を演じることが増えるにつれ、その鬱憤を晴らすがごとく高座には更に磨きがかかり、従来の都会的(バタ臭くカッコ付ける)なスタンダップ・コメディ路線から、丸出しの山形弁で恫喝まがいの客いじりをする[注 2]泥臭い芸風に進化して、爆笑王の地位を不動のものとする[要出典]。立川談志は「ドクターは凄(すげ)ぇ。ドクターに勝てるスタンダップ・コメディアンは、俺かビートたけしくらいだ」と、その芸のセンスを評価した[9]。1990年頃、落語芸術協会に入会(のち脱退)。
2005年に白板症(舌がん)に罹患したが、完治させて復帰する。療養中にもかかわらず予定されていた独演会を敢行した際は、黒板を前に一言も喋らず舞台を務め上げ、身振り手振りと筆談だけで観客を魅了。「私のがんは……子宮がんです」「病床でも、いつ女を抱けるかなと考えていた」「顔は悪性です」 などとギャグを飛ばし、ゲストのおぼん・こぼんから「師匠は、喋らなくても笑いが取れる」と感服された[10][11]。
80歳を超えても演芸番組の常連として活躍。「泥臭い」芸風はさらに変化し、軽めの客いじりを絡めつつ、ダジャレや下ネタでオチをつける、ぼやき漫談風のスローテンポな高座を展開するようになった。[要出典]
2018年に肺気腫を発症。同年9月、BS朝日『お笑い演芸館』の収録を最後に、療養のため仕事を全てキャンセルして休業していたが、2019年2月、容態が悪化し入院。同年4月8日午後3時35分、肺気腫のため福島県いわき市の入院先で死去[12]。85歳だった。
人物
- 1988年に、福島県いわき市に移住し、観光使節(サンシャイン大使)に任命されていた。2011年の東日本大震災以降は、いわき市内の公民館で炊き出しや衣類を提供するなどの支援活動を行っていた[13]。2017年、いわき市市政功労者表彰を受ける。
- 俳優の北村総一朗とは長年の友人で、北村はケーシーを「たった2歳上だけど、おやじのような存在」と思っていた。ケーシーは北村を「総ちゃん」と呼んでいた[14]。
- ダンディズム極まる私服のファッションセンスでも著名。
- 亡くなった時点で、日本テレビ系『笑点』の演芸コーナー出演回数で、マギー司郎、ナポレオンズに次ぎ歴代3位の記録を持っていた。
- NHKラジオ第一『ザ・ケーシーSHOW』では、その長年の芸歴から多彩なゲストを呼び、縦横無尽なトークを展開した。番組構成力の評価も高い。
- 「芸人はつらいところを見せてはいけません」との芸人魂を貫き、舞台での適度な毒舌とお色気を織り交ぜた医事漫談は、新年のお笑い特番などでは欠かせぬ存在であった[15]。
一門
兄弟弟子
弟子
- 高峰青天・幸天
- 高峰欣二朗 - 山本譲二 専属司会者
- 高峰てんじ - Wエースの谷エースの最初の相方
- など
出囃子
出演
映画
テレビドラマ
演芸・バラエティ番組
ラジオ番組
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レコード
シングル
- そりゃあないぜセニョリータ / ゆうべの僕(1970年5月) - 作詞:斉木克巳、作曲:村井邦彦、編曲:川口真
- いこうぜセニョール / 知らない海(1970年10月)
- 太郎と花子(サラポニタン) / 愛子……(1971年6月)
- 可哀想だぜ / 別れた女(1973年7月)
- やっぱり山形 / お金が恐い(1986年12月) - A面はあき竹城と共演。
- 恐怖のブルース / つかない夜のジンクス(1987年7月)
アルバム
- 『これでキマリだ! ケーシーの替歌集』
- A1.ケーシーの夢は夜ひらく
- A2.ケーシーのズンドコ節
- A3.ケーシーの四つのお願い
- A4.ケーシーのいい湯だな(いいナオンだな)
- A5.そりゃあないぜセニョリータ
- A6.ケーシーのいいじゃないの幸せならば
- B1.ケーシーの新宿の女(東京のひと)
- B2.ケーシーの女のブルース(男のブルース)
- B3.いこうぜセニョール
- B4.ケーシーの番外地小唄
- B5.知らない海
- B6.ゆうべの僕
脚注
注釈
出典
外部リンク