クラヨーヴァ (ルーマニア語 : Craiova /kra'jo.va/クラヨーヴァ ;ドイツ語 : Kragau )は、ルーマニア 第5の都市 [ 1] で、ドルジュ県 の県都。中央オルテニア 地方のジウ川 東岸近くに位置する。昔からの政治的中心地であり、北のトランシルヴァニアアルプス山脈 と南のドナウ川 の中間点にある。ブカレスト 西方の主要商業都市である。日本語では、クライオヴァ、クライオバ、クライヨヴァ、クラヨーバなどとも表記される。
歴史
クラヨーヴァはかつてダキア人 が占領していた場所で、ローマ帝国 の属州ダキア の都市ペレンダヴァ(Pelendava )となってから公式にオルテニアの首都となった。ワラキア 国家の高位ボヤール (封建領主)は古いバン の称号を持ち、彼らは最初クライオヴェシティ(Craioveşti )家から出ていた。バンは、自身の肖像とともに硬貨に印形を押す権利を持っていた。これが例となり、ルーマニア・レウ の補助通貨バンを表すルーマニア語の語源となった。
1395年、クラヨーヴァは、ワラキア公ミルチャ老公 (en:Mircea I of Wallachia )がオスマン帝国 君主バヤズィト1世 軍を破った際の戦場となった(ロヴィネの戦い )。
16世紀前半以後、しばしば都市と称されるようになり、クラヨーヴァ地域は常にワラキア及びルーマニアの重要経済地域と一般にみなされた。1718年から1737年にかけ、ハプスブルク家 がオルテニア全体を支配し、その間クラヨーヴァの地位は経済的な圧迫と、中央集権制度強化のため衰えた。そしてクラヨーヴァのボヤールの抗議活動と平行して、ハイドゥク と呼ばれる山賊が一部で増加することになった。1761年、ギリシャ 貴族のワラキア公コンスタンティヌス・マヴロコルダトス(en:Constantine Mavrocordatos )時代、バンたちはクラヨーヴァで自らの代理をするカイマカム(Kaymakam 、トルコ時代の称号で、知事を意味する)を残して、ブカレスト へ強制隔離された。
ワラキア公エマヌエル・ジャニ・ルセット(Emanuel Giani Ruset )時代、ワラキアの首都がクラヨーヴァへ移された(1770年-1771年)。露土戦争 (1768年-1774年)で戦場となるのを避けるためとみられる。1800年、ボスニア 系トルコ人 のパシャ 、オスマン・パズヴァントウル(Osman Pazvantoğlu )の反乱で、クラヨーヴァ市内大部分が焼け野原となった。
ワラキア反乱 の間、現在のドルジュ県住民は大多数が、トゥドル・ヴラディミレスク 率いる軍に、ブカレスト遠征に貢献するため加わった。19世紀最初の20年間、クラヨーヴァは、手工芸品貿易と公共サービスに集中して、経済的繁栄を目の当たりにした。ロシア帝国 占領時代と、それに続く構成国家時代(1828年-1834年)、市はその経済的生産性を増した。1832年、市内には595の商店(197はバラック、398は煉瓦造りの家)があった。当時、クラヨーヴァは小麦、毛皮、革、家畜やその他製品をオーストリア帝国 とオスマン帝国へ輸出していた。
クラヨーヴァ市民コスタケ・ロマネスク は、1848年のワラキア革命 の間地方政府の首領の一人であった。ワラキア最後の2人の支配者、ゲオルゲ・ビベスク と バルブ・ディミトリエ・シュティルベイ は、クラヨーヴァに住む重要なボヤールの家系、ビベスク家出身であった。
1860年頃、クラヨーヴァには4,633の建物があった(内訳は3,220軒の住宅、26の教会、学校11校、60の工場と工房)。その他、およそ90の製造業関連施設、12軒の製粉工場、3軒のビール工場、2軒の石油工場、4軒の染色工場と2軒の印刷所があった。ドルジュ県の職人全体のうち57%がクラヨーヴァに住んでいた(1,088人がマイスター 、687人が徒弟期間を終えた職人、485人が徒弟であった)。
1877年から1878年の露土戦争 期間は、経済及び文化の発展した時期と重なる。結果として、19世紀終わりのクラヨーヴァは、40,000人の人口を持ち、小さな工場と織物工場が発展した。1896年10月26日、クラヨーヴァ発電所が操業を開始した。クラヨーヴァは、内燃機関 による電力供給を受ける国内発の都市となった。
1900年、クラヨーヴァはオルテニア地方内の産業設備一式のうち43.1%を抱えていた。銀行業は20世紀初頭に始まった。
両大戦間、クラヨーヴァは農業地域の中心として、さらなる一層の工業化を経験した。工場労働者の人数は比較的少数が残った。1939年、市は7つの産業設備に100人を超える労働者がいた。
1960年以後、共産主義 政権のもと、クラヨーヴァは、飛行機産業、化学工業、食品製造業、建設、電気工学、鉱山業、電力産業と同様、自動車産業とエンジン組み立て工場の有名な中心となった。
ルーマニア革命 後、自由市場の再建と総合的な地方分権化がもたらされ、市場そのものが民間の創意に対し開かれる間、いくつかの工場は民営化された。工業は経済的な変化に影響を受けたが、依然として重要な部門であり、クラヨーヴァの生産高のおよそ70%に相当する。
人口統計
クラヨーヴァは2002年調査で302,601人の人口を抱える。内、ルーマニア人 96.66%、ハンガリー人 0.07%、ドイツ人 0.06%、セルビア人 0.01%、ロマ人 2.91%、イタリア人 0.06%、ギリシャ人 0.06%、ウクライナ人 0.01%である。
経済
ルーマニア革命以後、遠隔通信サービス、銀行および保険業、経営顧問業が拡大し始めた。クラヨーヴァ自動車 工場は大宇財閥 が正式に所有していたが、2007年9月にフォード・モーター へ売却された。
交通
クラヨーヴァ市内の公共交通機関は、3つのトラム 路線(クラヨーヴァ市電 )、17のバス 路線からなる。また、主要な鉄道駅を持ち、国内の他の主要都市とも通じている。クラヨーヴァ空港 もある。
見どころ
ニコラエ・ロマネスク公園
マドナ・ドゥドゥ教会 - 1750年から1756年にかけ建設され、1831年の地震で破壊された後、1844年に修繕された。壁画を完成させたのはゲオルゲ・タッタレスク である。
聖デメトリウス教会
コシュナ修道院付属教会 - 1483年からある、クラヨーヴァ最古の建物。
バンの館 - 1699年からある、宗教施設でないものとしては市内最古の建物。15世紀にバルブ・クライオヴェスクが建てたものを、コンスタンティン・ブルンコヴェアヌ が建て直した。現在は民族・民俗芸術博物館として使用。
クラヨーヴァ美術館 - 1896年に建設された美術館。フランス人建築家ポール・ゴトロー の設計。コンスタンティン・ブランクーシ の初期の彫刻6点を展示。
オルテニア博物館 - 1915年創設。民族、歴史、自然科学の3分野に分けられている。
ニコラエ・ロマネスク公園 - クラヨーヴァ最大で最もよく知られる公園。発案者である当時の市長ニコラエ・ロマネスクの名を冠し、フランス人建築家エミール・レンドンが設計。設計図は、1900年パリ万国博覧会 で金賞を受賞した。1903年完成。
植物園 - 植物学者アレクサンドル・ブイアによりレイアウトがされ、1952年開園。クラヨーヴァ大学農学部の研究や、学生活動のためつくられた。
ジウ草原
教育
クラヨーヴァ初の学校は、1759年にコンスタンティン・オベデアヌによって開校された。1826年の春にオベデアヌの学校は国立ルーマニア語学校(Şcoala Naţională de Limba Română)となった。この学校は、1818年創立の聖サヴァ高校(ブカレスト)に次いでルーマニア国内で2番目に古い学校である。
大学
スポーツ
いずれも約30,000人収容のスタディオヌル・ヨン・オブレメンコ をホームスタジアムとしている。
出身の人物
姉妹都市・友好都市
姉妹都市
友好都市
参照
Istoria Craiovei , Titu Georgescu, Constantin Barbacioru, Florea Firan, Virgil Joita, Constantin Mocanu, Luchian Deaconu, Ion Dogaru, Editura Scrisul Românesc, 1977
Florea Firan, Alexandru Firescu, Craiova , Ghidul oraşului , Editura Sport-Turism, 1982
Documentare statistică privind evoluţia economică şi socială a municipiului Craiova , Dolj County Statistical Office, 1992
外部リンク
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脚注