936年オットー大帝はアーヘンで戴冠式を催すと、これが以後のドイツ君主戴冠地=アーヘンの伝統の先駆けとなり、王宮教会(Pfalzkirche)に葬られたカール大帝にも結びつく。1356年の金印勅書は帝国法としてローマ王戴冠地=アーヘンを定め、1531年にいたるまで30人のドイツ君主がこの地で戴冠した。他の地で戴冠した3人の王も、後年、改めてアーヘンで戴冠式を挙げている。オットー3世はこの地に埋葬された[8]。カール大帝に心酔していたフリードリヒ1世はアーヘン市民に自由(»frei)を、市に市場開設権(Marktprivileg)と貨幣鋳造権(Münzprivileg)を与え、「ドイツ帝国の頭」(caput regni Theutonici)と呼んだが、王権の基盤はドイツ北西部からドイツ南部に移っていたので、この呼称は実情とは合わなかった[8]。
ドイツ王(ローマ王)の即位式が代々アーヘン大聖堂で挙行された伝統について、ある伝説では次のように語っている。ペトラルカがドイツを旅した時にアーヘンの司祭から本当の事として聞いた話だが、カール大帝はある庶民の女性(eine gemeine Frau)への愛におぼれ、政務を疎かにした。この女性が死んで悪臭を放ってもなお大帝は相手が生きているかのようにキスしたり抱いたりしていた。これは魔法のせいと感じ取った大司教は亡骸の口の中に指輪を見つけ、それを取り除くと、大帝は迷いから覚めてようやく亡骸を葬らせた。以後、大司教は大帝の恩顧を獲得し、大司教がどこに行こうとも大帝はその後をついて回った。大司教は指輪の力を知り、それがいつか良からぬ者の手に渡ることを恐れ、アーヘンの近くの湖に投げ捨てた。以来、大帝はこの地を大切に思い、立派な城と大聖堂を建立した。残りの生涯をこの城で過ごし、死後は大聖堂に葬られることを望んだ。そして、自分の後継者は全てまずこの地で塗油・聖別の式(即位式 ; sich salben und weihen lassen)を催すべしと定めたと[15]。
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Berger, Dieter (1993) (ドイツ語). Duden, geographische Namen in Deutschland: Herkunft und Bedeutung der Namen von Ländern, Städten, Bergen und Gewässern. Mannheim/Wien/Zürich: Bibliographisches Institut. p. 29
Georges, Heinrich (1913) (ドイツ語). Ausführliches Lateinisch-deutsches Wörterbuch. Hannover: Hahn. "Ausgearbeitet von Karl Ernst Georges"
Grimm, Brüder (1993). “»Der Ring im See bei Aachen«”. In Uther, Hans-Jörg (ドイツ語). Deutsche Sagen. 2. München: Diederichs. p. 405ISBN3-424-01177-0
Steingräbe, Erich (1962) (ドイツ語). Deutsche Plastik der Frühzeit. Königstein im Taunus, Germany: Karl Robert Langewiesche Nachfolger Hans Köster [ケーニヒシュタイン・イム・タウヌス、ドイツ : カール・ロベルト・ランゲヴィッシェの後継者ハンス・ケスター]. pp. 88 (Aufnahme)