アンヴァル

アンヴァル[1](古アイルランド語: Enbarr; アイルランド語: Aonbharr)は、ケルト神話ダナーン神族のひとり長腕のルーの馬で、海神マナナーン・マク・リールからの借物とされる。疾風より早く、海も陸も同様に平気で駆けることができ、乗り手の無事を守る魔法の馬であった。

マナナン・マク・リールの海も陸も駆ける馬と、名前は出さずに解説されることもある。

語意

Enbarrは「飛沫(しぶき)」の意味であると中世の辞典『コルマクの語彙集』英語版には定義されている[2]

また「単一のたてがみ」や「比類なきたてがみ」の意味だとするユージン・オカリー英語版説や[3]、「鳥の頭を持つことを意味する」というジョン・リース英語版の解説もある[4]

近年のケルト神話辞典には「唯一の超越性」という説明もみられる[注 1][5]

表記

「アンヴァル」というカナ表記は、佐藤俊之の著述にみられる[1][注 2]。しかし『トゥレンの子らの最期』の日本語による解説(要約・抄訳)には馬の名が明記されていない例がみられる(井村君江ヤン・ブレキリアン英語版のケルト神話入門書に所収される訳文)[7][8]

井村は、「マナナン・マク・リールの海も陸も駆ける馬」という主見出しで『妖精学大全』に掲載している[9]

アイルランド語の表記はAonbharrである[10][注 3]

伝承文学

トゥレンの子らの最期

近代物語版『トゥレンの子らの最期』によれば、ルーはは、"約束の地の妖精騎士団"(アイルランド語: an Marcra Sidh ó Thir Tairrngire)を率いて現れていた。その錠馬も海神が融通した「マナナーンのアンヴァル」であった。この馬アンヴァル(エーンバル)は、"冷い生の春風"よりも速く"海も陸も同じで、その背にある騎乗者は殺されることはない"という魔性の馬である。ルーが身につけたマナナーンよりの魔法の帷子や胸甲や、剣フラガラッハで護身を強固にしていた[17][18]。また、これに勝る速さの馬も強さの馬もいないと記述される[19]

ウェイヴ・スウィーパー

トゥレンの子らは、課せられた賠償品を世界から集めるためにこの馬の借用を願い出たが拒否されており、そのかわりルー魔法の船「静波号(ウェイヴ・スウィーパー)」の使用をかなえられた[注 4]、オグレイディは"Ocean-Sweeper"[11] と船に英語の意訳名を与えた。この船は、行きたい目的地にむかっておのずと勝手に航行する便利な乗り物だった[21]

他の馬

ルーは、持ち前の馬以外にも、シチリア国王ドバールが所持する二頭の馬を賠償として所望するが、この二頭もやはり「海も陸も同じく(平気に走る)、速さも力もこれらに勝る血統の馬はいなかった」という、性質のよく似た馬たちである[注 5][7]

考察

ウェールズの伝承

アイルランドのルーに相当するウェールズの神は「手先器用な」の異名をもつスェウ・スァウ・ゲフェス英語版だが、その馬は「黄白色の足跡の駒」の意の名(ウェールズ語: Melyngan Gamre[26]、または「薄黄色の種馬」の意の名(Melyngan Mangre)だとされている[注 6][27]

この言及は、『ウェールズの三題詩』の一編に含まれる。スェウの馬は、「ブリテン島の三頭の贈答馬」のひとつであることが、海神からの借物であるルーの馬と共通するとリース英語版教授は指摘している[4][25]

また、タリエシンの書英語版の一編では、スェウの馬は「半ば馴らされた」馬と形容されるが[28]、察するに野獣や猛獣をてなづけるような調教の苦労が偲ばれるのではないか、とされている[4]

白馬

邦書には、このマナナーンの馬が白馬であるとする参考書が相当数あり[1]、洋書にも例はある。『トゥレンの子らの最期』でルーが率いる"約束の地の妖精騎士団"について、P・W・ジョイスは"全員、白馬にまたがった軍人たち"が見えた、と脚色している[29]

マナナーンの馬車は"輝く海馬たち(アイルランド語: gabra lir)に牽かれるという記述が、中世の物語『ブランの航海』にみつかるが[30]、この海馬とは"白波"(上が頭毛のような波)を意味する比喩表現にすぎない[31][注 7]

また、M・オールドフィールド・ハウィーという著者の 『The Horse in Magic and Myth』 (1923年)は、「海に嵐が起きるとき、アイルランドではそのくだける波がマナナーン・マクリルの白馬たちであるといわれる」としている[33]石田英一郎の英文論文でも同著書から引用しているが、その右欄外に"Mannanán’s white horse"という見出しがついている[34]

脚注

注釈
  1. ^ "unique supremacy"。
  2. ^ ロールストンに拠れば"ain-barr"と発音する[6]
  3. ^ 英訳としては、Aenbharr[10]、Œnbarr[11]、Énbarr[4][5]、"Enbarr of the flowing mane, that is, the driving wind"(剣は Frecart.)[12]、"Enbarr of the Flowing Mane"[13]、"Aonbharr, of the One Mane"[14]、"Splendid Mane"[15]、Aenbarr of Mananan[16]、Anbarr[6]などが挙げられる。
  4. ^ 「静波号」は井村による和訳名[20]。原名は「波の箒(ほうき)"the Besom, or Sweeper of the Waves" ((アイルランド語: scuab tuinné)[21]。オダッフィーは意訳せずに"Sguaba Tuinne"という名にとどめたが[22]、P・W・ジョイス訳(再話)では "Wave-sweeper"[23]
  5. ^ 『来寇の書』によれば、ルーが賠償に求めた二頭の馬は、ガーネ(現代発音ガ―ニャ)(?)とレア(?) (アイルランド語: Gainne & Rea)という[24]
  6. ^ ブロムウィッチは、詩の英訳では"Pale Yellow of the Stud"「馬小屋の薄黄色[馬]」と表記しているが、解説部分では別の用例を引いて mangre を "stud-horse"と訳している。リースは「住処の黄白のもの」"the Yellow-white one of the Habitation"と訳している[25]
  7. ^ ハリー・マウンテン編の百科事典は、マナナーンが"すばらしきたてがみとアンヴァルという二頭の白馬"に馬車を牽かせていると記述するが[32]、少し勘違いしており、「すばらしきたてがみ("Splendid Mane")」とは前述したようにアンヴァルの意訳名のひとつに過ぎない[15]
出典
  1. ^ a b c 佐藤俊之 監修『伝説の「武器・防具」がよくわかる本」』(PHP 文庫 2007年), p.144 "ルーには、聖剣フラガラックや、絶対に落馬しない白馬アンヴァル、..光の槍ブリューナクを与えられた(p.144)"
  2. ^ O'Donovan tr. (1868), "Enbarr", Sanas Chormaic, p. 66: "froth. én "water" + barr "cacumen, spuma".
  3. ^ O'Curry 1863, p. 163, note 145 "One Mane"; p. 193, n206 "the One Mane; that is, of the unrivalled mane".
  4. ^ a b c d e Rhys, John (1891), Studies in the Arthurian, Clarendon, https://books.google.com/books?id=hHw6AAAAMAAJ&pg=PA221 
  5. ^ a b Mackillop, James (1998). "Énbarr". Dictionary of Celtic Mythology. Oxford University Press. p. 182. ISBN 0192801201
  6. ^ a b Rolleston, T. W. (1911), Myths & Legends of the Celtic Race, Constable, pp. 125, 422, https://books.google.com/books?id=yhcSAQAAIAAJ&pg=PA422 
  7. ^ a b 井村君江, 1990 & 157-240.
  8. ^ ヤン・ブレキリアン (2011), 下、42頁
  9. ^ 妖精学大全』(「マナナン・マク・リールの海も陸も駆ける馬」の項)。マナナン・マク・リールの海も陸も駆ける馬”. 妖精学データベース. うつのみや妖精ミュージアム (2008年). 2020年10月4日閲覧。による。異表記も記載。
  10. ^ a b O'Curry (1863), pp. 162/163.
  11. ^ a b O'Grady, Standish (1881), History of Ireland, 1, Sampson Low, p. 110, https://books.google.com/books?id=odsvAAAAMAAJ&pg=PA110 
  12. ^ MacBain, Alexander (1884), “Celtic Mythology X”, Celtic Magazine 9: 170, https://books.google.com/books?id=nmVJAAAAMAAJ&pg=PA170 ; 同 (1885), Celtic Mythology and Religion, p. 71
  13. ^ Joyce, P. W. (1894), “The Fate of the Children of Turenn; or, The Quest for the Eric-Fine”, Old Celtic Romances: pp. 37-95, https://books.google.com/books?id=c98YAAAAYAAJ&pg=PA37 
  14. ^ Lady Gregory (1905), Gods and Fighting Men, p. 22, https://books.google.com/books?id=3uDxKXNg8iUC&pg=PA22 
  15. ^ a b Squire, Charles (1904), Celtic Myth and Legend: Poetry & Romance, pp. 60, 89, 92, https://books.google.com/books?id=t3WjqN6yfewC&pg=PA60 
  16. ^ Cross, Tom Peete; Slover, Clark Harris (1936), Ancient Irish Tales, H. Holte, p. 22, https://books.google.com/books?id=3uDxKXNg8iUC&pg=PA22 
  17. ^ O'Curry (1863), pp. 162–163: "And thus was the personal array of Lugh of the Long-Arms, namely: the Aenbharr.. she was as fleet as the naked cold wind of spring, and sea and land were the same to her, and [the charm was such that] her rider was never killed off her back."
  18. ^ Spaan, David B. (1965), “The Place of Manannan Mac Lir in Irish Mythology”, Folklore 76 (3): 176, 179 (176–195), JSTOR 1258585 
  19. ^ O'Curry (1863), pp. 190–191: "sea and land is equally convenient to them; and there are not swifter or stronger steeds than they; (fuil="blood, stock (DIL)"; laidre/láthar="vigor, energy(DIL)")
  20. ^ 井村 (1990), pp. 88- 「トゥレン3兄弟の試練の旅 」
  21. ^ a b O'Curry 1863, pp. 193, 192n
  22. ^ O'Duffy (1901), ¶35, p. 30, tr. 99.
  23. ^ Joyce 1894, p. 61.
  24. ^ Macalister, R.A.S. ed., tr., Book 4, "Part VII: Invasion of the Tuatha De Danann" ¶317.
  25. ^ a b c Rhys, John (1888), The Hibbert Lectures, Clarendon, https://books.google.com/books?id=MWRIAAAAMAAJ&pg=PA385 
  26. ^ Myvr. Arch. Triads ii. 50 = ヘルゲストの赤本版の表記。英語での意訳"Steed of the Yellow-white Footsteps"はリースによる[4][25]
  27. ^ Bromwich, Rachel, ed. (2014) [1961], “Triad 26, 26WR: Three Powerful Swineherds of the Island of Britain”, Trioedd Ynys Prydain (Cardiff: University of Wales Press): pp. 50–58, 103–104, https://books.google.com/books?id=K2euBwAAQBAJ&pg=PA103 
  28. ^ Skene, Poem XXVIII (Book of Taliessin XXV), The Four Ancient books of Wales I, p. 308. "the steed of Lleu half domesticated"; 原文: II, p. 176 "march ƚƚeu ƚƚetuegin".
  29. ^ Joyce 1894, p. 38: "warriors, all mounted on white steeds"
  30. ^ 『ブランの航海』Meyer, Kuno, ed. (1895), Voyage of Bran, 1, London: D. Nutt, https://archive.org/details/voyageofbransono01meye/page/18/mode/2up ¶36, pp. 18–19
  31. ^ eDIL s.v. "gabor (2)"
  32. ^ Mountain, Harry (1998). "Manannan". The Celtic Encyclopedia. Vol. 4. Universal-Publishers. p. 840.: "seen riding his chariot hauled by two white horses Splendid Mane and Aonbarr over the waves"
  33. ^ Howey, Mary Oldfield (2002) [1923], The Horse in Magic and Myth, Dover, p. 143, https://books.google.com/books?id=NSArXBknWlQC&pg=PA143 
  34. ^ Eiichirô, Ishida; Yoshida, Ken'ichi (1950). “"Kappa" Legend. A Comparative Ethnological Study on the Japanese Water-Spirit "Kappa"and Its Habit of Trying to Lure Horses into the Water” (pdf). Folklore Studies 9: 35. https://nirc.nanzan-u.ac.jp/nfile/1304.  (JSTOR) (SCRIBD)

参考文献

  • 小辻梅子『トゥレンの子たちの運命』社会思想社〈現代教養文庫〉、1995年。 
  • ヤン・ブレキリアン『トゥレンの息子たちの死に至る探求』田中仁彦・山邑久仁子 (訳)、中央公論新社、2011年(原著1998年)、35-52頁。