エンポリアエの硬貨。紀元前5世紀から紀元前1世紀
アンプリアスで出土したギリシア製の萼型クラテール
パライアポリス、ネアポリス、ローマ都市(エンポリアエ)の位置関係
アンプリアス (カタルーニャ語 : Empúries [əmˈpuɾiəs]、スペイン語 : Ampurias )は、現在のスペインカタルーニャ州 アルト・アンプルダー の地中海岸に存在した街である。紀元前575年、ギリシアの都市国家 ポカイア からの植民者が建設した。当時の名称はエンポリオン (古代ギリシア語 : Εμπόριον )で、「市場」を意味する。後にローマ人に征服されたが、中世初期になると海岸線が無防備で略奪が横行したため、町は放棄された。
その遺跡は自治体ラスカーラ の北部サン・マルティー・ダンプリアス 地区に位置している。駐車場もあるし、自治体中心地区のラスカーラから遊歩道を歩いて向かうこともできる。
歴史
アンプリアスはフルビアー川 (en ) 河口の小さい島に建設された町で、そのあたり一帯にはイベリア人 部族 Indigetes が住んでいた。紀元前550年、住民が島から本土に移住して「ネアポリス (Neapolis)」すなわち「新市」を建設したため、以前の島の都市は「パライアポリス (Palaiapolis)」すなわち「旧市」と呼ばれるようになった。
紀元前530年、母都市ポカイアがアケメネス朝 ペルシアのキュロス2世 に征服されたため、難民がこの新市に流入し、人口が急激に増加した。この一帯はカルタゴ の勢力圏だったが、この都市は何とかギリシア文化を保持した。先住民は近くの Indika という都市に住んでおり、その都市との政治的および商業的合意が結ばれた。ちょうどマッサリア(マルセイユ )とタルテッソス を結ぶ沿岸交易路の中継点にあたっており、商業および交易拠点として栄え、イベリア半島 最大のギリシア植民都市となった。
ポエニ戦争 の際はローマ と同盟を結んでいた。紀元前218年には、プブリウス・コルネリウス・スキピオ によるヒスパニア 征服が開始された。
ローマ属州時代
ローマによるヒスパニア征服後もエンプリエスは独立した都市国家 として残った。しかし、ポンペイウス とユリウス・カエサル の内戦の際にポンペイウスに味方したため、ポンペイウスが敗北した後で自治権を失った。この一帯を統治するため、Indikaの近くにエンポリアエ (Emporiae) という植民都市が建設された。
それ以降、アンプリアスは徐々に衰退し、代わってタラコ(タラゴナ )やバルチーノ(バルセロナ )が栄えるようになっていった。3世紀末には、スペインで初めてキリスト教伝道者が入った都市の1つとなった。同じころギリシア人の建設した古い都市は放棄されたが、ローマ都市カステリョ・ダンプリアス (Castelló d'Empúries) は造幣と儀礼的な中心地として存続したものの[ 1] 、9世紀中ごろにヴァイキング に襲われるようになって衰退した。後にアンプリアス伯ウーゴ2世 (en , 1078-1117) が造幣を再開している。
遺跡
アンプリアスの原始キリスト教バシリカの遺跡
ローマ時代の市壁
ローマ時代のモザイク床
この都市の正確な位置は15世紀から知られていたが、体系的な発掘調査が開始されたのは20世紀になってからである。最初の公式な発掘は1908年、バルセロナ博物館委員会 (Junta de Museus de Barcelona) により行われた。発掘は今も続いている。
パライアポリス
パライアポリスのあった島は今では本土の一部となっており、中世期には Sant Martí d'Empúries という村があった。そのころの港も完全に泥で埋まっており、発掘はいまのところ行われていない。
ネアポリス建設後、旧市はアクロポリス (要塞と神殿)として使われたと見られている。ストラボン はここにアルテミス の神殿があったと記している。
ネアポリス
ネアポリスは200×130メートルほどの不規則な形状の市街地からなり、市壁で囲まれていた。市壁には紀元前5世紀から紀元前2世紀ごろまで改修を繰り返した跡がある。西側の壁はネアポリスとイベリア人の町である Indika を隔てていた。
ネアポリスの南西部分には様々な神殿がある。アスクレーピオス の神殿などの古い神殿をアルテミス の神殿に転換したものがあり、大理石像が出土している。南東部分にはゼウス -セラピス の神殿がある。発掘された建物の大部分はヘレニズム 期のものである。中にはモザイクや壁画で装飾された建物もあり、アゴラ や防波堤などの公共建築物も見つかっている。ローマ属州時代には公衆浴場 や原始キリスト教 のバシリカ が建設された。
新市の南および東にはネクロポリス がある。
ローマ都市
ローマ都市部分はこれまでに20%程度しか発掘されていない。典型的なローマの軍事基地の長方形の街区であり、2つの幹線道路がフォルム から延びている。ローマ都市はギリシア都市よりもかなり大きい。共和政ローマ 時代にローマのカピトリヌス の丘と同様のユーピテル とユーノー とミネルウァ を祀った神殿が建てられた。アウグストゥス の治世下でバシリカ (集会施設)とクリア (議事堂)が追加されている。
町の東部から大きな住居がいくつか発掘されている。中庭があり、別棟がいくつもあって、床はモザイクで壁画がある。紀元2世紀には塔のない市壁で囲まれていた。市壁の外にアンフィテアトルム とパライストラ が建設されている。
脚注・出典
^ Stephen P. Bensch, "Lordship and coinage in Empúries," in The Experience of Power in Medieval Europe , Robert F. Berkhofer, Alan Cooper, Adam J. Kosto, eds. 73-, p. 74.
外部リンク
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座標 : 北緯42度08分04秒 東経3度07分08秒 / 北緯42.13444度 東経3.11889度 / 42.13444; 3.11889