飯塚 弥一郎(彌一郎、いいづか やいちろう、1852年8月21日(嘉永5年7月7日[1][2][3][4])- 1923年(大正12年)9月18日[5])は、明治から大正期の地主、農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、新潟県刈羽郡日高村長。
経歴
越後国刈羽郡新道村[1]、のちの新潟県[5]刈羽郡日高村(高田村[2][3][6]を経て現柏崎市新道)で、大地主[3]・飯塚弥兵衛の長男として生れた[2][4]。藍澤南城の三余堂学寮で漢学、洋学を学んだ[3]。1868年(明治元年6月)に家督を相続[2][4][5]。農業を営む[5]。
実業界などでは、1882年(明治15年)1月、第百三十九国立銀行取締役に就任[3]。その他、同行監査役、日本石油監査役、柏崎銀行取締役、同頭取、柏崎米穀取引所理事、北浜酒造監査役、北越植民監査役、日本赤十字社特別会員、帝国義勇艦隊名誉会員、恩賜財団済生会名誉会員などを務めた[2][3][4][5][6]。
1871年(明治4年10月)新道村外9ヶ村戸長に就任[3][5]。区長を経て[3]、1880年(明治13年)4月、新潟県会議員に選出された[3][5][6]。1889年(明治22年)日高村長に就任[3][5]。1897年(明治30年)1月、刈羽郡会議員となり同参事会員も務めた[3][5][6]。
1915年(大正4年)3月、第12回衆議院議員総選挙に新潟県郡部から立憲同志会所属で出馬して当選し[3][7]、その後憲政会に所属して衆議院議員に1期在任した[5][6]。
親族
脚注
- ^ a b 衆議院『第三十六回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1915年、6頁。
- ^ a b c d e f 『新潟県人物誌』74-76頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l 『現代日本の政治家』同志会7-8頁。
- ^ a b c d e f g 『人事興信録 第4版』い55頁。
- ^ a b c d e f g h i j 『議会制度百年史 – 衆議院議員名鑑』51頁。
- ^ a b c d e 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』37頁。
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』48頁。
- ^ 山田順一『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ 渋谷善作コトバンク
- ^ 歴史にみる地域活性化 : 明治時代の新潟県のケース 松本和明 京都マネジメント・レビュー 42 153-171, 2023-03-01京都産業大学マネジメント研究会
- ^ 資料紹介「長岡における産業クラスター形成にかかわる広井一の役割」「廣井一傳」箕輪 義門/編 北越新報社 昭和17年 綿引宣道 長岡大学生涯学習センター『生涯学習研究年報』第5号(通巻第 14 号)
- ^ 飯塚弥一郎『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ 増田太平治『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
参考文献
- 三神正僚『新潟県人物誌』越後会、1918年。
- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 細井肇『現代日本の政治家』國光社、1916年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。