1941年12月にアメリカ合衆国が第二次世界大戦に参戦した時、陸軍の各種映画製作は陸軍信号隊(英語版)が担当し、陸軍の一部局である航空軍の映画も信号隊が手がけていた。しかし、航空軍司令官ヘンリー・アーノルド将軍は航空軍の独立性を強調する為にも独自の映画撮影部隊が必要だと考えていた。1942年3月、アーノルドはワーナー・ブラザース社長ジャック・L・ワーナー、プロデューサーのハル・B・ウォリス、脚本家のオーウェン・クランプ(Owen Crump)らを招き、新たな映画撮影部隊の編成を依頼した。この際、ワーナーには中佐、クランプには大尉の階級が与えられたが、ウォリスだけは航空軍将校の肩書を辞退している。当面の問題は航空軍への志願者およびパイロットの不足であった。アーノルドは少なくとも100,000人のパイロットが必要だと伝えた上でワーナー・ブラザースと契約を結び、こうして志願兵募集映画『Winning Your Wings』(翼を得よ)が制作された[1][6]。
『Winning Your Wings』の監督はクランプで、ジェームズ・ステュアートが主演した。ステュアートの演じた威勢のよいパイロットのキャラクターは、アメリカ国民の抱く航空軍パイロットの印象を大きく変えたと言われている[1][3]。この映画はわずか2週間で制作されたが、映画としては大成功を収め、アーノルドはこの映画によって100,000人のパイロット志願者が集まったとしている[2][7]。なお、ワーナー・ブラザースではこれ以前にも、『Men of the Sky』(空の男達)、『Beyond the Line of Duty』(責務を超えて)、『The Rear Gunner』(後方機銃手)といった航空軍関連の映画を制作している[1]。
編成
『Winning Your Wings』の成功によってさらなる訓練・宣伝映画の需要が生じたが、ワーナー・ブラザース一社のみでこれを満たすことは非常に困難とされた[3]。これを受け、ジャック・L・ワーナーは独立した映画部隊の編成に着手した[1]。この部隊には訓練・宣伝映画の制作および従軍カメラマンの訓練という2つの任務が課されることとなった[8]。こうして映画業界関係者のみ所属する部隊が歴史上初めて編成されたのである[2]。
1942年7月1日、航空軍の常設編成としての第1映画部隊(First Motion Picture Unit, FMPU)が正式に発足した。創設メンバーのうち主要な人物としては、部隊長ワーナー中佐(ワーナー・ブラザース社長)、クランプ大尉(脚本家)、ノックス・マニング(英語版)大尉(俳優)、エドウィン・ギルバート(英語版)少尉(脚本家)、ロナルド・レーガン少尉(俳優)、オレン・ハグランド(英語版)伍長(脚本家)がいた。部隊の拠点は当初カリフォルニア州バーバンクにあったワーナー・ブラザース本社横に設置され、後にハリウッドのヴァイタグラフ・スタジオ(英語版)に移った。しかし、ヴァイタグラフは当時十分に管理されておらず、第1映画部隊が必要とする大規模な撮影を行うこともできなかった。この頃、クランプは偶然にもカルバーシティでハル・ローチ・スタジオ(英語版)という撮影所を借りることに成功する。作家マーク・ベタンコート(Mark Betancourt)によれば、この時ハル・ローチ・スタジオの各設備は完璧な状態であったという[3]。
陸軍の礼式もフォート・ローチでは重要視されなかった。敬礼は任意とされ、隊員らはファーストネームで呼び合っていた。また、フォート・ローチには兵舎もなかった為、ほとんどの隊員は自宅から通勤していた。自宅が遠い者はフォート・ローチからほど近いページ軍学校(Page Military Academy)に宿泊していた[3]。
映画製作
第1映画部隊が最初に手がけたプロジェクトは、飛行訓練補助用映画『Learn and Live』(学び、生きよ)だった。この映画は「パイロットの天国」を舞台としており、長編映画のスターだった俳優ガイ・キビー(英語版)が聖ペトロ役で主演した。劇中では正しい飛行技能を示す為、初歩的な12つのミスについて解説される[8][9]。
第1映画部隊に課された最も重要な任務の1つは、対日空襲作戦に用いる誘導資料および地形資料を作成することだった。この任務は極秘扱いとされ、一連のフィルムは「第152特殊映画計画」(Special Film Project 152)のコードネームで呼ばれていた。グレゴリー・オアは、「恐らく、第1映画部隊に課された最も重要かつ困難な試みだった」と評している。第1映画部隊はB-29爆撃機乗員向けの資料映像を制作することとなり、40日の期間が与えられた[9]。
第1映画部隊は日本の地理に関する調査研究を経て、爆撃対象地域を再現した面積80x60フィート(24x18m)、縮尺1フィート:1マイルの巨大なジオラマを制作した。このジオラマでは山岳や建築物、鉄道、水田などの地形が再現され、雲や霧が描き込まれていた。撮影には専用の固定式オーバーヘッドカメラが用いられた。このカメラはモーター駆動式で、航路に沿って動かすことで対象地域上の飛行をシミュレートすることができた。『The New York Sun』紙によれば、カメラの映像は高度30,000フィートからB-29爆撃機乗員が目にする光景を再現したものだった[14]。第20空軍の将兵はこの特殊映画を用いることで標的を容易に発見し、ジオラマの精密・正確さに驚いていたという[9]。アーノルドは第20空軍による爆撃成功の後、特殊映画に関して「危険な任務に従事する者達へのブリーフィングを行うにはこれほど便利なものはない」と語った[14]。
ヨーロッパの爆撃評価
1945年5月にナチス・ドイツが降伏すると、アーノルドはクランプに対し、爆撃による被害程度を調査して報告するように命じた。この調査計画は「第186特殊映画計画(ドイツ語版)」(Special Film Project 186)のコードネームで呼ばれた。クランプと彼の部下はカラーフィルムを用いてヨーロッパ各地の主要都市で爆撃被害の調査を実施した。また、元ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥らを始めとする連合国軍側が確保した旧ナチス・ドイツ要人のデブリーフィングを記録したほか、オールドルフやブーヘンヴァルトなどの強制収容所をアメリカ軍人が解放する様子もクランプのクルーによって撮影されている。後に脚本家マルヴィン・ワルド(英語版)は収容所に関するフィルムを最初に見た時を回想し、「夏の日だったが、それにも関わらずレーガンは震えて出てきた──皆そうなった。我々はああいうものを目にしたことがなかった」と語った[3]。
クランプらによる撮影時間は合計100時間分にもなったが、その大半は人の目に触れることはなかった。制作コストは100万ドルと見積もられており、これを受けた航空軍が資金の提供を拒否したためである。後に制作されたドキュメンタリー作品『The Story of Special Film Project 186』において、この計画は「第二次世界大戦における最大のカラーフィルム撮影計画と、史上最長の未使用フィルム」と評された[15]。
^ abcdefgCunningham, Douglas (Spring 2005). "Imaging/Imagining Air Force Identity: 'Hap' Arnold, Warner Bros., and the Formation of the USAAF First Motion Picture Unit". The Moving Image. Accessed 2012-05-29.
^ abcdefgGeorge J. Siegel. “Hollywood's Army”. The California State Military Museum. 2012年6月21日閲覧。