石川 安次郎(いしかわ やすじろう、1872年9月19日〈明治5年8月17日〉- 1925年〈大正14年〉11月12日)は、明治・大正期の日本のジャーナリスト、代議士。号は半山(はんざん)で、通称石川半山[1]。他の筆名に呑海、城北隠士。
経歴
岡山藩士・石川彦衛の次男。岡山市一番町生まれ。慶應義塾を卒業後、ただちに『庚寅新誌』の記者となる。
次いで『信濃日報』主筆、『中央新聞』経済部長、『東京毎日新聞』主筆、次いで『報知新聞』に引き抜かれて北京に留まること5年、記者として北清事変(義和団の乱)に従軍し、中支那の外交機密を紙面で暴露して世間を驚かせた。次いで特派員としてポーツマス会議を取材。報知新聞主筆を経て一時『東京朝日新聞』に在籍したが、最終的に『萬朝報』の主筆として論陣を張り、「政界ゴシップの天才」といわれるようになる。1924年5月に衆議院議員(憲政会)に選出される。
社会活動では、幸徳秋水らと「普通選挙期成同盟会」に参加。足尾銅山鉱毒事件における田中正造の直訴にも参画するなどし、他支那事情に通じて粛親王を推重して『粛親王傳』を刊行した。第一次護憲運動においては中村太八郎らとともに普通選挙同盟会を組織している[2]。その他、沼間守一を始めとする幕末明治期の人物の評伝もかなり多い。
著書
単著
編集
脚注
参考文献
- 黒龍会 編『東亜先覚志士記伝』黒龍会出版部、1935年。
関連項目
外部リンク