渋沢 敬三(しぶさわ けいぞう、正字体:澁澤 敬三、1896年〈明治29年〉8月25日 - 1963年〈昭和38年〉10月25日)は、日本の実業家、財界人、民俗学者、政治家。第16代日本銀行総裁、第49代大蔵大臣(幣原内閣)。祖父・渋沢栄一から渋沢子爵家当主及び子爵位を引き継いだ。
生涯
財界人として
1896年(明治29年)8月25日、渋沢栄一の長男・篤二と妻・敦子の長男として生まれる(敬三の下に弟が2人がいる)。「敬三」は論語の一節「言忠信にして行篤敬ならば蛮貊()の邦といえども行われん」(衛霊公第十五)より栄一が命名した。敦子の父(母方の祖父)は羽林家の公卿出身の元老院議官を務めた伯爵橋本実梁。
東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。1913年に父篤二が廃嫡されたこともあり、中学卒業時(1915年)には祖父の栄一により澁澤同族株式会社が設立され、同社の初代社長に就任。当初は動物学者を志し、仙台の第二高等学校農科への進学を志望していたが、敬三に期待する祖父・栄一が羽織袴の正装で頭を床に擦り付けて第一銀行を継ぐよう懇願したため、第二高等学校の英法科に進学する。
1918年(大正7年)、第二高等学校卒業後、東京帝国大学経済学部入学。
1921年(大正10年)山崎覚次郎博士のゼミナールにて「ビュッヘル氏の所謂工業経営階段と本邦に於ける其の適用に就て」を提出して卒業。
1921年、大学卒業後、横浜正金銀行に入行。1922年、ロンドン支店に着任(支店長は大久保利賢、のちに矢野勘治)。その間に木内重四郎、磯路夫妻の次女登喜子と結婚(媒酌人は和田豊治)。登喜子の父の重四郎は京都府知事等を務めた官僚で、登喜子の母磯路は三菱財閥の創始者岩崎弥太郎の次女である。その間の1925年(大正14年)には長男・渋沢雅英(渋沢栄一記念財団初代理事長)が誕生する。そして1926年(大正15年)に5年間に渡り勤務した横浜正金銀行を退職した。同年には祖父・栄一ゆかりの第一銀行取締役、澁澤倉庫取締役に就任。第一銀行副頭取などを経て1942年(昭和17年)に日本銀行副総裁[1]、1944年(昭和19年)には第16代総裁に就いた。
第二次世界大戦直後、姻戚の幣原喜重郎首相(幣原の妻・雅子と敬三の姑・磯路は姉妹)に乞われて大蔵大臣に就任。およそ半年の在任中に預金封鎖、新円切り替え、高税率の財産税の臨時徴収等により、インフレーション対策と戦時中に膨らんだ国債等の国家債務の整理に当たった。またこの頃より高松宮家財政顧問も務めるようになった。一方で、渋沢家はGHQの財閥解体の対象となり、1946年(昭和21年)には創立以来敬三が社長を務めた澁澤同族株式会社も持株会社整理の対象となり、自らも公職追放の指定を受ける[2]。 また、自ら蔵相として導入した臨時の財産税のために、三田の自邸を物納することになった。追放中の1948年(昭和23年)10月、兵器処理問題に関し、衆議院不当財産取引調査特別委員会に東久邇稔彦、津島寿一、次田大三郎らとともに証人喚問された[3]。
1951年(昭和26年)追放解除[2]後は、経済団体連合会相談役や、電電公社からの国際電話事業分離で特殊法人として設立された国際電信電話(KDD。現KDDI)の初代社長、財界が共同で設立した文化放送の会長(澤田節蔵の後継として就任)などを務めた。
民俗学者として
並行して、若き日の柳田國男との出会いから民俗学に傾倒し、漁業史の分野で功績を残した。祖父・栄一の没後の1932年(昭和7年)には、糖尿病の療養のため訪れた静岡県内浦(現在の沼津市)で大川四郎左衛門家文書を発見。 一つの村の400年にわたる歴史と海に暮らす人々の生活が記録されていたこの文書を持ち帰って、これを筆写した。 そしてアチックの同人らとともに纏めた『豆州内浦漁民史料』[4]を刊行し、1940年(昭和15年)日本農学賞を受賞した[5]。他に『日本釣魚技術史小考』、『日本魚名集覧』、『塩俗問答集』などを著した。
港区三田の自邸[6]の車庫の屋根裏に、二高時代の同級生とともに動植物の標本、化石、郷土玩具などを収集した私設博物館「アチック・ミューゼアム(屋根裏博物館)」[7]を開設(第二次大戦中に日本常民文化研究所と改称[注 2])。アチック・ミューゼアムに収集された資料は、東京保谷にあった日本民族学会附属の民族学博物館を経て、現在は大阪吹田・万博公園内の国立民族学博物館収蔵資料の母体となり、常民文化研究所は神奈川大学に移管された[注 3]。なお三田の旧渋沢邸[注 4]は、戦後国所有になり大蔵相公邸などに使われその後取り壊しの案も出たが、1991年(平成3年)に渋沢家で執事をしていた杉本行雄により青森県三沢市の古牧温泉渋沢公園[注 5]へ移設され展示されていた。現在は所有権を清水建設が買い取り(清水建設の創業二代目がこの渋沢邸を設計した)2023年に江東区へ移築し一般公開する予定。東京・北区の飛鳥山公園内にある渋沢史料館[9]でも敬三の事績が紹介されている。
また、栄一没後に竜門社が企画した「日本実業史博物館」を主導し、書籍、絵画(含む広告)、器物、紙幣など近世経済史資料の収集を進めるが、戦時統制経済の影響で建築資材が集められずに挫折する。戦後も建設を模索し続けたが実現せず、収集された資料は1951年に文部省史料館に寄託、1962年に敬三自身により正式に寄贈している。
多くの民俗学者も育て、岡正雄、宮本常一、今西錦司、江上波夫、中根千枝、梅棹忠夫、網野善彦、伊谷純一郎らが海外調査に際し、敬三の援助を受けている。他にも多くの研究者に給与や調査費用、出版費用など莫大な資金を注ぎ込んで援助し、自らも民俗学にいそしんだのは、幼い頃から動物学者になりたかったものの諦めざるを得なかった心を癒したものとみえる。敬三と、柳田をはじめ多くの研究者との交友の様子は、友人でもあった岡茂雄(岡書院店主)の回想『本屋風情』[10]に詳しく記載されている。
晩年・死去
1960年、旅先の熊本にて倒れる。以後入退院が増える。1961年、東洋大学の理事に就任する。小川原湖民俗博物館開設。1963年、朝日賞受賞。東洋大学の名誉文学博士号を授与される。受賞後、体調を崩し入院。
1963年10月25日、虎の門病院にて糖尿病と腎萎縮を併発し死去。満67歳没(享年68)。
年譜
家族・親族
渋沢家
系図
主な著書・編著
- 『祭魚洞雑録』 郷土研究社、1933年
- 『祭魚洞襍考(さいぎょどうざっこう)』 岡書院、1954年
- 『東北犬歩当棒録』 産業経済新聞社、1955年
- 『南米通信 アマゾン・アンデス・テラローシャ』 角川書店、1958年
- 『日本魚名集覧』 角川書店、1958年
- 『日本魚名の研究』 角川書店、1959年
- 『犬歩当棒録』 角川書店、1961年
- 『日本釣漁技術史小考』 角川書店、1962年
- 編著『絵巻物による日本常民生活絵引』(全5巻)、角川書店、1965-1968年
- 『澁澤敬三-民族学の組織者 日本民俗文化大系3』 宮本常一編・解説、講談社、1978年
- 『澁澤敬三著作集』 平凡社(全5巻)、1992-1993年。網野善彦・渋沢雅英ほか編
- 『祭魚洞襍考・続 祭魚洞襍考ほか』
- 『日本魚名の研究 日本釣漁技術史小考』
- 『犬歩当棒録・祭魚洞雑録ほか』
- 『南米通信・雁信集・旅譜と片影ほか』
- 『未公刊論文・随想・年譜・総索引』
- 『渋沢敬三-小さき民へのまなざし』川島秀一編 「やまかわうみ別冊」アーツアンドクラフツ、2018年
関連文献
- 『澁澤敬三先生景仰録』(同編集委員会編、東洋大学、1965年)
- 渋沢雅英『父・渋沢敬三』(実業之日本社、1966年)
- 『澁澤敬三』(澁澤敬三伝記編纂刊行会(上・下)、1979-81年)
- 佐野眞一『旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三』(文藝春秋、1996年/文春文庫、2009年)
- 佐野眞一『渋沢家三代』(文春新書、1998年)
- 拵嘉一郎『澁澤敬三先生と私-アチック・ミューゼアムの日々』(平凡社、2007年)
- 宮本常一『宮本常一著作集50 渋沢敬三』(田村善次郎編、未來社、2008年)
- 丸山泰明『渋沢敬三と今和次郎-博物館的想像力の近代』(青弓社、2013年)
- 由井常彦・武田晴人編『歴史の立会人-昭和史の中の渋沢敬三』(日本経済評論社、2015年)
- 加藤幸治『渋沢敬三とアチック・ミューゼアム』(勉誠出版、2020年)
- 畑中章宏『傍流の巨人 渋沢敬三-民俗と実業の昭和史』(現代書館、2024年)
- 『歴史と民俗 特集 渋沢敬三と日本の近代』 神奈川大学日本常民文化研究所論集39号(平凡社、2023年)、論考7篇
- DVD『学問と情熱 第34巻 渋沢敬三 常民へのまなざし』(紀伊國屋書店評伝シリーズ、2007年)
- 藤原道夫演出・佐野賢治監修、ナレーター中井貴恵(65分)
- 展覧会図録
- 渋沢史料館 編『特別展図録 屋根裏のはくぶつかん 渋沢敬三と民俗学』1988年。
- 近藤雅樹 編『図解 大正昭和くらしの博物誌―民族学の父・渋沢敬三とアチック・ミューゼアム』河出書房新社、2001年。 国立民族学博物館 特別展図録
- 『屋根裏の博物館 実業家渋沢敬三が育てた民の学問』(神奈川大学、横浜市歴史博物館、2002年)
- 『屋根裏部屋の博物館』(国立民族学博物館監修、淡交社、2013年)。没後50年企画
- 渋沢史料館 編『祭魚洞祭:渋沢敬三没後50年企画展』公益財団法人渋沢記念財団渋沢史料館、2013年。 NCID BB13917096。
登場作品
- テレビドラマ
脚注
注釈
- ^ 著者は幼年時に住み込み師事。写真約130点を収録。
- ^ 戦争半ば過ぎた頃に、アチックなる西洋人が住んでいるのかと度々尋問されたので、世間的に常民文化研究所と改められた[8]。
- ^ 横浜市歴史博物館・神奈川大学日本常民文化研究所編での図録に詳しい。
- ^ 三田の旧邸宅跡地には、全省庁共用の三田共用会議所がある。
- ^ 三本木(現・十和田市)には農地改革以前は渋沢財閥が経営する農場が存在した。秘書の杉本が当地に移ったのは渋沢農場の精算を敬三に命じられたことが発端であり、詳細は古牧温泉の項参照。
出典
関連項目
民俗学・政財界
渋沢同族
外部リンク