木内 重四郎(きうち じゅうしろう、慶応元年12月10日(1866年1月26日) - 大正14年(1925年)1月9日[1])は、戦前日本の官僚・政治家。
来歴・人物
千葉県山武郡千代田村(現:芝山町)出身[2]。千葉中学、一高を経て、1888年(明治21年)に東京帝国大学法科大学政治学科を特待生として卒業して[3]官界に入る。法制局参事官試補、農商務省商工局長、韓国統監府農商工務総長、朝鮮総督府農商工部長官等を歴任。1911年(明治44年)8月24日、勅選の貴族院議員となり[4][5]、茶話会に所属した[1]。1916年(大正5年)3月27日、錦鶏間祗候となり[6]、同年4月28日、官選の京都府知事に就任した。町村編入など多くの事業を断行して「悍馬」(暴れ馬)と評された[7]。府会議員買収の汚職疑惑事件により大正7年に辞任し、収監される(京都疑獄事件、豚箱事件。小林芳郎も参照)[8][9]。
岩崎弥太郎の次女・磯路(いそじ)と結婚した「三菱五婿」の一人であり[10]、同じく五婿の一人で弥太郎の長女・春路と結婚した加藤高明が憲政会の総裁を務めたことから、木内も憲政会に所属していた。
晩年は千葉県市川市真間(まま)の別邸で過ごし61歳で没した。別邸は1890年代から1910年代の近代建築様式(和洋折衷様式)として価値が高く、1999年(平成11年)に取り壊されたが、2004年(平成16年)に洋館部分が復元され、「木内ギャラリー」として公開されている。
栄典
- 位階
- 勲章等
親族
磯路夫人は岩崎弥太郎・喜勢夫妻の次女で[19][20]、義父・弥太郎は三菱財閥の創始者[21][22]。絵を嗜み、日本画を川合玉堂に、洋画を石川寅治に師事した[9]。
重四郎・磯路夫妻は3男2女をもうけた。長男・良胤は外交官で[23][24]、次男・信胤は経済評論家として知られている[23][24]。長女・美艸子は最後の土佐藩主・山内豊範の四男で海軍少将を務めた山内豊中に嫁いだ。
次女・登喜子は渋沢栄一の嫡孫で日本銀行総裁や大蔵大臣を務めた渋沢敬三と1922年(大正11年)に結婚した[23][24][9]。登喜子と敬三の長男の渋沢雅英(日本外国語研究所元理事長)は孫、雅英の娘の渋沢田鶴子(登喜子の孫、MRAハウス評議員)は曾孫である。
良胤の長男(すなわち重四郎の孫)・昭胤も外交官で[23]、元衆議院議員・木内孝胤は重四郎の曽孫(昭胤の次男)にあたる[25]。
なお良胤の妻・淑子は宮内官僚・関屋貞三郎の長女で[26]、信胤の妻・多代は福澤諭吉の孫娘である。
脚注
- ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』116頁。
- ^ 木内重四郎君 前商工局長法學士『立身致富信用公録. 第12編』(国鏡社、1903)p.6
- ^ 『特捜検事ノート』 中央文庫(昭和61年)4月10日初刷発行 44-45頁
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、19頁。
- ^ 『官報』第8454号、明治44年8月25日。
- ^ 『官報』第1094号、大正5年3月28日。
- ^ 前京都府知事 木内重四郎氏『光悦談叢:一名鷹峰叢談』森田清之助(芸艸堂、1920)p.71
- ^ 木内重四郎とは - コトバンク
- ^ a b c 木内信胤氏追悼 渋沢雅英(信胤の甥)、渋沢敬三アーカイブ、2004年2月26日
- ^ 三菱五婿の一人木内重四郎『当面の人物フースヒー』燧洋高橋鉄太郎(フースヒー社、1913)p.264
- ^ 『官報』第2529号「叙任及辞令」1891年12月3日。
- ^ 『官報』第3404号「叙任及辞令」1894年10月31日。
- ^ a b 『官報』第3714号「叙任及辞令」1925年1月12日。
- ^ 『官報』第5395号「叙任及辞令」1901年6月28日。
- ^ 『官報』第7499号「叙任及辞令」1908年6月26日。
- ^ 『官報』第7771号「叙任及辞令」1909年5月24日。
- ^ 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。
- ^ 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。
- ^ 佐藤『門閥』262-263頁、270頁。
- ^ 神『閨閥』400頁。
- ^ 佐藤『門閥』257頁。
- ^ 神『閨閥』p.396。
- ^ a b c d 早川『日本の上流社会と閨閥』 56-57頁。
- ^ a b c 小谷野『日本の有名一族』32頁、34-35頁。
- ^ 『週刊ポスト』2010年12月17日号掲載「『龍馬伝最終回でNHKvs三菱の遺恨再燃ぜよ!』」
- ^ 『昭和人名辞典 第1巻 東京編』324頁、552頁。
参考文献
伝記
- 馬場恒吾『木内重四郎伝』(ヘラルド社、1937.10)
関連項目
外部リンク