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この項目では、東京都千代田区の地名について説明しています。そのほかの地名については「永田町 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 |
永田町(ながたちょう)は、東京都千代田区の町名。現行行政区画は永田町一丁目および永田町二丁目。住居表示実施済みの地域。郵便番号は100-0014[2]。
国会議事堂や内閣総理大臣官邸、内閣府、国会議事堂、各政党の本部などが所在し、隣接する霞が関・隼町とともに日本の首都機能を担っている。また、永田町は国会議員や政治の代名詞としても用いられる。
歴史
地名は、江戸時代初期に、地内の日枝神社門前に旗本の永田伝十郎、權介、市十郎ら永田姓を名乗る家があったことによるといわれ、「寛永江戸図」には「なかたばゞ(永田馬場)」と書かれている[4][5]。
江戸城に近いことからさらに大名屋敷が建ち並ぶようになり、江戸末期に暗殺された井伊直弼をはじめとする多くの大名の屋敷があった。2003年(平成15年)の旧首相官邸改築工事の際には、村上藩内藤家の屋敷跡が発見された。
1872年(明治5年)以降、現在の憲政記念館から日本水準原点付近に陸軍省、参謀本部、教育総監部、陸軍航空総監部など陸軍中枢が順次置かれるようになった。
1941年(昭和16年)12月以降、これらが市ヶ谷台に移転するまでは、永田町の「三宅坂」といえば主に参謀本部を指す言葉であった。
1888年(明治21年)には東京女学館(現:東京女学館中学校・高等学校)が、翌年の1889年(明治22年)には華族女学校(現:学習院女子中・高等科)が現在の衆・参両議長公邸の地にそれぞれ移転開校し、後に共学の華族女学校幼稚園(現:学習院幼稚園)も置かれた。1908年(明治41年)には永田町尋常小学校(現:麹町小学校)が開校した。
1923年(大正12年)の関東大震災を機に、現在の霞ヶ関地区の区画再編が行われ、東京府立第一中學校(現:日比谷高等学校)がこの地の「たばこ王」村井吉兵衛の邸宅跡に移転してくる。また1925年(大正14年)には、北大路魯山人が星ヶ岡茶寮を借り受け「美食倶楽部」の拠点とした。
1936年(昭和11年)に国会議事堂が完成すると一挙に政治中枢が集中し、「永田町」は「政界」の代名詞になっていった。また、同年に発生した二・二六事件では、永田町・霞が関・山王下(日枝神社~赤坂周辺)周辺一帯を反乱軍が占拠した。
1964年(昭和39年)、東京オリンピックに向けての道路(国会通り)拡幅前は国会議事堂横に民家が数軒存在した。1967年(昭和42年)4月1日に住居表示を実施した[6]。
町名の変遷
実施後
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実施年月日
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実施前(特記なければ各町ともその一部)
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永田町一丁目
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1967年4月1日
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永田町一丁目(大部分)、三年町、霞ケ関一丁目、霞ケ関二丁目、霞ケ関三丁目
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永田町二丁目
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永田町一丁目、永田町二丁目(大部分)
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霞が関三丁目
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霞ケ関三丁目、三年町、永田町二丁目
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世帯数と人口
2017年(平成29年)12月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
小・中学校の学区
区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[7]。なお、千代田区の中学校では学校選択制度を導入しており、区内全域から選択することが可能[8]。
施設・建造物
掲載されているのは一部である。
道路
交通
関係者
- 居住その他ゆかりある人物
脚注
注釈
出典
関連項目
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永田町に関連するカテゴリがあります。
外部リンク