神田駿河台(かんだするがだい)は、東京都千代田区の町名。住居表示は未実施。現行行政地名は神田駿河台一丁目から神田駿河台四丁目。郵便番号は101-0062[2]。
地理
御茶ノ水駅の南側の地域である。千代田区・神田地域の北に位置し、文京区(本郷・湯島)との区境に当たる。「駿台(すんだい)」との略称も存在する。御茶ノ水駅周辺は大学や専門学校、予備校などの教育機関が集中しており、隣接する神田神保町・神田三崎町・湯島は日本最大の学生街を形成している。
河川
歴史
地名の由来
元和2年(1616年)4月17日、徳川家康が駿府城で死去すると、家康に属していた「駿府詰」の家臣の多くが江戸に戻ってくるようになった。幕府は、これら家臣の屋敷として、新しく開発されていた神田台を割り当てた(これら家臣のための宅地を開発する目的で、神田台の開発を行ったという説もある)。神田台は駿府詰だった人々が多く住むようになり、駿河台と呼ぶようになったという。
沿革
もとは本郷台地と連続していたが、江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の命を受けた仙台藩祖・伊達政宗が1620年(元和6年)に仙台堀(神田川)の開削によって分離した[6][7][8][9][10]。また、削って下町を埋めたために、今では台地では無い所もある。
関東大震災の復興区画整理事業の第1号地となった。戦前の旧神田区時代は、明治の元勲である西園寺公望が私邸を構えるなど、山の手の住宅街として知られていたが、1970年代に入ると民家が主としてオフィスビル、店舗などに取って変わられ現在では住宅の存在が稀になった。
1960年代には御茶ノ水駅から本郷通り沿い周辺を中心として学生相手の店が多くなり始めた事もあって日本のカルチェ・ラタンと呼ばれた[11]。
年表
- 1878年(明治11年)11月2日 - 郡区町村編制法施行により、駿河台南甲賀町、駿河台北甲賀町、駿河台袋町、駿河台東紅梅町、駿河台西紅梅町、駿河台鈴木町が東京府神田区に編入される。
- 1933年(昭和8年) - 関東大震災後の市区改正により町名改正を行う。
- 駿河台南甲賀町→神田駿河台一丁目・二丁目に編入
- 駿河台北甲賀町→神田駿河台一丁目・三丁目に編入
- 駿河台袋町→神田駿河台一丁目・二丁目に編入
- 駿河台東紅梅町→神田駿河台四丁目に編入
- 駿河台西紅梅町→神田駿河台二丁目に編入
- 駿河台鈴木町→大部分を神田駿河台二丁目に編入
- 淡路町一丁目→一部を神田駿河台三丁目に編入
- 淡路町二丁目→一部を神田駿河台四丁目に編入
- 裏猿楽町→一部を神田駿河台二丁目に編入
- 猿楽町三丁目→一部を神田駿河台二丁目に編入
- 1934年(昭和9年)
- 1967年(昭和42年)4月1日 - 神田駿河台二丁目の一部で住居表示を実施し、町名を変更する[12]。
- 1969年(昭和44年)4月1日 - 神田駿河台二丁目7番地[13]で住居表示を実施し、町名を変更する[14]。
町名の変遷
実施後
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実施年月日
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実施前(特記なければ、各町名ともその一部)
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三崎町一丁目
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1967年4月1日
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神田三崎町一丁目、神田駿河台二丁目
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猿楽町二丁目
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1969年4月1日
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神田猿楽町二丁目(全域)、神田駿河台二丁目
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世帯数と人口
2017年(平成29年)12月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
丁目 |
世帯数 |
人口
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神田駿河台一丁目
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59世帯
|
64人
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神田駿河台二丁目
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264世帯
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321人
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神田駿河台三丁目
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48世帯
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103人
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神田駿河台四丁目
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42世帯
|
80人
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計
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413世帯
|
568人
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小・中学校の学区
区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[15]。なお、千代田区の中学校では学校選択制度を導入しており、区内全域から選択することが可能[16]。
交通
鉄道
道路
施設
- 教育
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- 企業・法人
-
- 宗教施設
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-
明治大学リバティタワー
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山の上ホテル
-
古今書院
-
三井住友海上駿河台ビル
-
ニコライ堂
出身・ゆかりのある人物
政治家・経済人
文化人
学者
脚注
参考文献
- 人事興信所編『人事興信録 第10版 上』人事興信所、1934年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版 上』人事興信所、1943年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第19版 東京篇』帝国秘密探偵社、1957年。
- 千代田区役所 編『千代田区史』 上巻、千代田区役所、1960年3月31日。NDLJP:3002666。 (要登録)
関連項目
外部リンク