楠 孝志(くすのき たかし、1947年2月25日 - )は、北海道沙流郡平取町出身の元騎手・調教助手。
1969年3月に騎手免許を取得し、同期の須貝四郎と共に阪神・橋田俊三厩舎からデビュー。須貝以外の同期には田村正光・上野(伊藤)清章・内田国夫・中島敏文・西浦勝一がいる。初騎乗は同1日の中京第1競走4歳未勝利・マツヤイチ(17頭中11着)[1] [2]、初勝利は同23日の阪神第7競走5歳以上障害・ミスコマツ[3]であった。
1年目は26勝(平地23勝, 障害3勝)[4] [5]を挙げて中央競馬関西放送記者クラブ賞を受賞し[6]、2年目の1970年には俳優の津川雅彦が本名の「加藤雅彦」名義で所有していたアリオーン[7]で博多ステークス(第6回金鯱賞)を制して重賞初制覇[8]。
1973年からは平地の騎乗に専念し、1975年にはキヨリューズキで中京記念をナオキの3着に入った後、続く小倉大賞典も3着、暮れのCBC賞では2着に入る[9]。
1976年から1980年には5年連続で2桁勝利[5]を挙げ、1976年2月8日の京都第5競走4歳新馬・テマリーで通算100勝を達成[10]。
1977年には小倉記念をベルで制して7年ぶりの重賞制覇[11]を成し遂げ、秋には朝日チャレンジカップで後に天皇賞(秋)を制すホクトボーイの3着[12]に入る。京都大賞典では道中で杉本清(当時・関西テレビアナウンサー)に「果たして、小倉のように、高らかにそのベルの音を鳴らすことができるか!」と実況されたが、有馬記念の壮行レースで63kgを背負ったテンポイントから遥か後方に離されながらも、5着と掲示板は何とか確保[13]。ホクトボーイや1975年のビクトリアカップ優勝馬ヒダロマン[14]、ヤマニンバリメラには先着[13]できた。
1979年には師匠・橋田の死去により、荻野光男厩舎に移籍。橋田の長男である橋田満は、諏訪佐市厩舎に移るまでの1年間、橋田が調教内容を記したノートを参考に、楠や久保正樹調教助手らと相談しながら厩舎を運営した[15]。楠は同年に自己最多の29勝[5](全国21位)をマークし、同年の阪神牝馬特別ではタイテエム産駒のシャークテイム[16]でオークス馬アグネスレディーを抑えて2着[17]に入る。1980年には中京で行われた京都記念(春)でリュウキコウ・ハシコトブキを抑えて3着[18]、夏の函館記念では後に天皇賞(秋)を制すキョウエイプロミス・プリテイキャスト、ダービー馬ラッキールーラを抑えて2着[19]に入った。
1980年夏の函館では二分久男厩舎のシンピロー[20]を13頭中11番人気ながら函館3歳ステークス制覇に導いて3年ぶりの重賞勝利を収め、11月22日の京都第11競走高雄特別・クニノエースで200勝を達成[21]。
1984年には4年ぶりの2桁勝利となる14勝[5]、3年後の1987年には諏訪佐市厩舎に移籍して12勝[5]を挙げる。
1989年には橋田満厩舎に移籍し、1990年にはパッシングショットでCBC賞では食い下がるバンブーメモリーを4分の3馬身降し[22]、同馬を重賞初制覇[23]に導くと同時に自身10年ぶりの重賞制覇[24]を挙げた。スワンステークスは2着に終わったが、マイペースで逃げ粘ったナルシスノワールに半馬身差まで迫った[22]。マイルチャンピオンシップでは10番人気という低評価[22]であったが、バンブーメモリーを差し切って初のGI制覇を果たした[25]。管理調教師の橋田と共にGI初制覇を成し遂げたが、楠にとって最後の重賞制覇[26]となった。スプリンターズステークスではバンブーメモリーと共に単枠指定され、小差の2番人気[27]で迎えたが、致命的な出遅れのため、メンバー最速の上がり33秒6で追い込んだが8着[25]に終わった。
1991年は中京で行われた報知杯4歳牝馬特別で岡潤一郎から乗り替わりのトーワディステニーに騎乗し、イソノルーブルの2着に入って桜花賞本番に駒を進めた[28]。京都4歳特別ではタイコンチェルトで2着[29]に入り、東京優駿では20頭中11番人気ながら、皐月賞2着馬シャコーグレイドに先着の7着[30]と健闘。12月14日の中京第8競走4歳以上500万下・イナドタイガーで300勝を達成[26]。
1992年は2月22日の小倉第6競走4歳以上500万下・ウィンザーモレノ、第10競走小石原特別・ブームレットで勝ち[26]、1988年7月23日の札幌[31] [24]以来3年半ぶりの1日2勝を挙げたが、この年はその日以降勝ち星を挙げることはなかった[26]。
1993年は1月31日の小倉第5競走4歳新馬・パラディスバンブーが最後の勝利[26]となり、2月27日に現役を引退。当日は小倉で3鞍に騎乗し、第3競走4歳未勝利で10頭中10番人気のスプリングスズカで2着に入って枠連、馬連万馬券[32]の波乱を演出、第12競走4歳以上500万下・エイユーランサー(12頭中4着)が最終騎乗となった[33]。
引退後は橋田厩舎の調教助手に転じ、サイレンススズカを手がけた。
※太字はGIレース。