岡 俊直(おか としなお)は江戸時代中期の神職。備前国岡山酒折宮(岡山神社)神主、岡山藩神職惣頭。藩士等を集めて社中を形成し、香川宣阿に和歌、里村昌億に連歌を学んだ。
経歴
延宝6年(1678年)生まれ。元禄12年(1699年)12月27日父岡隆恭が死去し、元禄14年(1701年)12月28日神籤により酒折宮神主に選ばれた。元禄15年(1702年)3月上京して、4月1日神道裁許状を受領し、神祇管領長上吉田兼敬に十八神道行法、日本武尊の尊影・縁記を受け、中臣祓の講義を聴講し、5月帰郷した。
宝永元年(1704年)10月出雲国杵築大社(出雲大社)に参詣した。宝永4年(1707年)6月上京し、兼敬に宗源神道の行法を受けた。正徳6年(1716年)2月上京して兼敬に太護摩の行法を受け、閏2月2日香川宣阿70歳の賀会に出席した。
享保5年(1720年)6月9日神職大頭となった。享保7年(1722年)7月上京し、8月9日兼連により正六位下越後守に叙され、社務号を賜った。享保10年(1725年)4月11日上京して兼敬に稲荷神社の神階を受け、伊勢大神宮・熱田明神に参詣した。
享保11年(1726年)4月21日岡山城で伊木忠興を通じて神職惣頭(備前国中并備中領内神職惣司役)を命じられ、神道請制度の元締として鴨方藩を含めた領内神職の身分を管理した。享保12年(1727年)7月池田継政により境内に山王権現を勧請し、9月16日正遷宮を行った。
享保18年(1733年)2月吉田兼雄の従三位叙任祝いのため上京した。享保20年(1735年)浜村に土地を借り、元文元年(1736年)神道学問所東陽軒を設立した。
元文4年(1739年)8月歩行困難のため引退を申請し、吉備津彦神社大守肥後守に惣頭職、子岡為直に神主職を譲った。9月26日死去し、28日半田山(岡山市岡山理科大学附属高等学校裏)に葬られた。諡号は東陽軒文整翁。延享元年(1744年)12月為直の一条兼香・道香との対面が実現した際、吉田兼雄の宗源宣旨により俊直に奥神号が贈られた。
著書
- 『岡山神社日記』 - 宝永3年(1706年)から明和7年(1770年)までの記録。為直・治直によって書き継がれた。岡山大学池田家文庫所蔵。
- 『花鳥遊草』 - 紀行。京都の鈴鹿家、舟橋家、風早家等に献上し、武者小路実陰から褒賞を受けた。寛延4年(1751年)業合賢豊写本が岡山大学業合文庫、大平経忠写本が正宗文庫所蔵[20]。
- 『稲荷大明神正遷宮和歌』 - 京都の公家に献上した。
- 『山王社記』 - 享保12年(1727年)10月15日藩命により記し、山王宮に奉納した。
- 「道中日記」 - 享保18年(1733年)閏2月から4月まで上京した時の日記。『岡山神社日記』同年4月11日条収録。往路須磨寺・大坂を観光し、京都で香川宣阿の月並歌会、里村昌迪の連歌会に参加し、復路有馬に立ち寄っている。
『佐陀大社奉納神始言吹草』に和歌が3首入選する。
社中
岡山の藩士や神官等を集めて社中を形成した。和歌では京都の香川宣阿、享保20年(1735年)の没後は姉小路実紀を師と仰ぎ、毎月23日に酒折宮で、主に柿本人麻呂忌日の18日に各同人宅で月並歌会を開催した。連歌では京都の里村昌億を師とし、元禄15年(1702年)以降毎月菅原道真忌日の25日に月並連歌会を開催した。詩会・月並謡会や神道・経典・歌書等の講釈も行い、囲碁も嗜んだ。
俊直の死後、活動は衰えた。
親族
- 父:岡隆恭 - 大守家出身。元禄10年(1697年)8月10日武田勝重の蟄居により、岡家が酒折宮神主に復帰した。元禄12年(1699年)12月27日没。
- 母 - 岡義久娘。
- 妻 - 岡氏。
- 男子:岡為直 - 従五位下越後守、国中社方惣司。
- 女子:澄女 - 大賀喜右衛門妻。
- 女子:天留 - 藤井重直妻。
- 男子:岡隆喜 - 岡久勝養子。
- 男子:佐藤親賢
脚注
参考文献