小田海僊小田 海僊(おだ かいせん、天明5年(1785年) - 文久2年閏8月24日(1862年10月17日))は、江戸時代後期の日本の南画家。通称は良平、名は羸(るい)または瀛(えい)。字を巨海、号は海僊または百谷。 略歴周防国富海(現在の山口県防府市富海)に生まれ、長門国赤間関(現在の山口県下関市)の紺屋(染工)を営む小田家の養子となる。 22歳のとき、京都四条派の松村呉春に入門し、同門の松村景文や岡本豊彦らと名声を競ったが、やがて頼山陽に感化され南画に転向。九州に遊学し、中国元明時代の古書画の模写をするなどして研究を重ねて、独自の画風を確立した。文政7年(1824年)、萩藩の御用絵師となり、一時江戸に滞在。2年後、京都に戻り活動。嘉永元年(1848年)から安政元年(1854年)にかけて画室を設けているが、このころ富岡鉄斎に絵を教えたと推定されている。 清楚な画風に特徴があり、山水画・花鳥画・人物画を得意とした。高野山や京都御所の障壁画(1855年)などの大事業を手掛けている。 交友門弟著作物
作品
文献
関連項目脚注
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