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この項目では、ノンフィクション作家について説明しています。広告会社社長については「佐野真一 (実業家)」をご覧ください。 |
佐野 眞一(さの しんいち、1947年(昭和22年)1月29日 - 2022年(令和4年)9月26日)は、日本のジャーナリスト、ノンフィクション作家。東京都葛飾区出身[1]。
経歴
乾物屋を商った東北出身の父は婿養子で、ただ寡黙に働くために生まれてきたような男だった[1]。男ばかり3人兄弟の長男[1]。初孫だったために粋人の祖父に溺愛され、小学生のころから浅草で酒の味や映画、演芸の享楽を仕込まれた[1]。
1965年(昭和40年)に早稲田大学第一文学部[2]に入学。当時、早稲田大学では学費値上げ反対闘争が起こっており、佐野も学生運動に参加したが幹部学生たちの左翼小児病的体質に嫌気がさし足を洗う。その後、「稲門シナリオ研究会」に入り(このシナリオ研究会には、古くは今村昌平や実相寺昭雄が在籍し、佐野の卒業と入れ替わるように村上春樹が入ってきた)、ぼんやりとだが映画監督になることを夢見ていた[1]。
なお、実家の乾物屋は佐野が子どもの頃にはそこそこ繁盛していたが、高校時代にスーパーが生まれ破竹の勢いで増殖を始めると、ダイエーの躍進もあり、大学入学時(昭和40年代)には店は閑古鳥が鳴きほぼ商売をたたみかけていた。[3]
大学卒業後
大学卒業後は、主に子供向けソノシート制作などを手がけていた音楽出版社・勁文社に入社。当初はソノシートの録音のチェック等の仕事をしていたが、1971年12月、ウルトラマンだけでなく、仮面ライダーやゴジラ、ガメラなどすべての怪獣、怪人を網羅した「原色怪獣怪人大百科」を自ら企画編集を手がけ発行。この当時の第二次怪獣ブームを受け、53万部を完売(小此木二郎)[4]という当時としては画期的なベストセラーになった[1]が、好景気となり翌年にかなりの数の新入社員が採用され、佐野は彼らをオルグして労組を結成したため1年半で解雇された[1]。
その後、
“しばらく失業保険でしのいでいたが、それが切れると、次の職場は新聞の三行広告で知った「新宿れぽーと」というタブロイド版のタウン紙だった。ここで私は、ホストクラブのナンバーワンホストやラブホテルの経営者を取材し、世間の裏表をずいぶん知ることになった。だが、それより社会勉強になったのは、風林会館近くの「ブルームーン」というキャバレーの上にあった編集部に出入りする怪しげな面面の生態をじっくり観察する機会を得たことだった。このタウン誌のオーナーは歌舞伎町一帯を根城とする本職のヤーさんだった。〜中略〜今思うと、取材にも通じる相手との駆け引きは、本物のヤクザと互いに胸先を読み合ったこのときの経験が、どこか役に立っている”
以上、「だから君に贈る。」(平凡社、2003年7/25初版)より。
フリーライターに転身後
以降フリーに転身[1]。佐野がフリーライターに転じた1970年代には、立花隆、柳田邦男、沢木耕太郎、本田靖春、上前淳一郎らが新たにノンフィクションの書き手として登場してきており、佐野は彼らの作品を読みながら自らの方向性を考え、焦りや葛藤を感じていたという。[3]その頃、同年輩のライター、編集者らと市ヶ谷駅前の居酒屋「番屋」にて月に一度、「番屋会」として勉強会を行っていた。「番屋会」は規模としては10人未満だったが、猪瀬直樹、高野孟、美里泰伸、吉岡忍、足立倫行、山根一眞、花田紀凱らが参加していた。本田靖春も先輩ゲストとして会に参加した。[3]
1977年(昭和52年)には、小板橋二郎、山根一眞、猪瀬直樹と「グループ915」を結成。グループ名の由来は、猪瀬と佐野で仕事場として間借りしていた先輩ライターのマンションの部屋番号からきている。月刊「現代」上での企画に小板橋二郎から声がかかり「グループ915」として共同執筆した作品を毎月のように発表していた。佐野は、小板橋とスタッフの3名で韓国へ取材し、120枚ほどの韓国論を執筆した。[3]
その後、「週刊文春」デスクだった花田と組み連載を開始、当時急速に成長しつつあった流通業界や外食産業にスポットを当てた内容で、佐野の実質的デビュー作となった。
1990年、無着成恭と「山びこ学校」の取材を開始した。同年、佐野の父が死去する。通夜の席では従兄弟から「「山びこ学校」の無着成恭は父と親戚関係にあるらしい」と聞いた。また佐野のひとり息子が中学を卒業したのも同じ年だったが、卒業文集がどれもこれも似通ったワンパターンの内容であることに愕然とし、「山びこ学校」の生活綴り方教育を受けて貧しい山形県の寒村で中学生たちが必死で綴った作文、詩を思い起こしたという。[3]
1997年(平成9年)、民俗学者・宮本常一と渋沢敬三の生涯を描いた『旅する巨人』により第28回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。2009年(平成21年)、『甘粕正彦 乱心の曠野』により第31回講談社ノンフィクション賞受賞。
2003年(平成15年)から開高健ノンフィクション賞選考委員を務める。
2010年、心臓のバイパス手術を受けた。[3]
2012年、週刊朝日による橋下徹特集記事問題が起こる。2012年10月26日号の佐野と週刊朝日取材班(今西憲之・村岡正浩)による「ハシシタ・奴の本性」という連載記事が問題となった。この橋下事件をきっかけに、佐野による数々の剽窃行為が明るみに出され、溝口敦・荒井香織『ノンフィクションの「巨人」佐野眞一が殺したジャーナリズム 大手出版社が沈黙しつづける盗用・剽窃問題の真相』(2013年、宝島社)の中で、盗用問題の詳細が検証された。また、溝口は佐野からの直筆の詫び状をインターネットで公開している[5]。この問題を受けて、佐野は石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム賞と開高健ノンフィクション賞の選考委員を辞任し、レギュラーの仕事もすべて休載とした。
2013年(平成25年)7月31日、著作権を侵害されたとして、日隈威徳から訴訟を起こされたが[6]、2014年(平成26年)10月16日に和解が成立した[7]。
2015年(平成27年)2月18日、橋下徹に対して「タイトルをはじめ記事全体が差別的で、深くおわびする」との「おわび文」を渡し、解決金を支払うことで、大阪地方裁判所において和解が成立した[8]。
2022年(令和4年)9月26日、肺がんのため千葉県流山市の病院で死去[9][10]。75歳没。
人物・評価
- 田中清玄狙撃事件の犯人(木下陸男)とは、佐野が20代の頃に毎晩ポーカーをやるような間柄だった。そのころ、佐野は東声会の幹部が経営する新宿のタウン誌で働いており、当時、東声会会長の町井久之が山口組組長の田岡一雄と盃を交わし兄弟分となっていたため、タウン誌の経営者から山口組が出していた社内報(山口組時報)で働いてみる気はないかと声をかけられたことがあった。[11]
- 佐野自身の回想として、「アサヒ芸能」での風俗ルポ(荒川洋治、川本三郎とのリレー連載)が文章修行になったと述べている。[3]
- 自身では著作を次のように分類している。『遠い「山びこ」』(1992)、『巨怪伝』(1994)、『旅する巨人』(1996)、『カリスマ』(1998)、『あんぽん』(2012)の高度経済成長5部作。『阿片王 満州の夜と霧』(2005)、『甘粕正彦 乱心の曠野』(2008)の満州をテーマとした2作。そして沖縄をテーマとした『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』(2008)、『僕の島は戦場だった』(2013)の2作。[3]
- ジャーナリストの横田増生によれば、『東電OL殺人事件』(2000)から『だれが「本」を殺すのか』(2001)を経て、2012年に『週刊朝日』で橋下徹を書くまでが、佐野が一番忙しく、最も売れた時期となった。その10年強の間に、30冊近い単行本や新書を著している。怒涛の勢いで、多種多様な分野の本を書いた。[12]
著書
共著(グループ915として)
- 『ドキュメント 永大処分』(1978年、講談社)
- 『大地震 1981年9月10日18時5分3秒M8直下型大地震が首都圏を直撃近未来小説』(1979年、プレジデント社)
単著
共編著
関連書籍
- 溝口敦・荒井香織『ノンフィクションの「巨人」佐野眞一が殺したジャーナリズム 大手出版社が沈黙しつづける盗用・剽窃問題の真相』(宝島社、2013年)
脚注
- ^ a b c d e f g h 朝日新聞「be」2012年6月30日付紙面
- ^ Yahoo!百科事典(日本大百科全書)[リンク切れ]
- ^ a b c d e f g h Nonfikushon wa shinanai.. Shin'ichi Sano, 真一 佐野. Isutopuresu. (2014.12). ISBN 978-4-7816-5032-6. OCLC 900469515. https://www.worldcat.org/oclc/900469515
- ^ フォノシートへの招待 / 現場に聞く / 株式会社剄文社(2013年2月2日閲覧)
- ^ 佐野氏が溝口に宛てた詫び状
- ^ “「盗作」で佐野真一氏を提訴 日隈威徳氏、週刊ポスト連載に”. MSN産経ニュース. (2013年7月31日). オリジナルの2013年8月1日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20130801024704/http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130731/trl13073118550002-n1.htm 2020年12月12日閲覧。
- ^ “佐野真一氏が無断引用認め、日隈氏と和解”. nikkansports.com (日刊スポーツ新聞社). (2014年10月16日). オリジナルの2014年10月17日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20141017043554/https://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp0-20141016-1382899.html 2020年12月12日閲覧。
- ^ “橋下氏訴訟:橋下市長と朝日新聞出版が和解”. 毎日新聞. (2015年2月18日). オリジナルの2015年2月21日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150221093936/http://mainichi.jp/select/news/20150219k0000m040121000c.html 2020年12月12日閲覧。
- ^ "ノンフィクション作家、佐野眞一さん死去「東電OL殺人事件」". デジタル毎日. 毎日新聞社. 27 September 2022. 2022年9月27日閲覧。
- ^ 「佐野真一さん死去 ノンフィクション作家、75歳」『時事ドットコムニュース』2022年9月27日。2023年1月3日閲覧。
- ^ 『唐牛伝』小学館、2016年、158頁。
- ^ 横田増生 (2022). “だれが佐野眞一を殺したのか”. 中央公論.