中原 致時(なかはら の むねとき、生年不詳 - 寛弘8年7月8日(1011年8月9日))は、平安時代中期の貴族。刑部大輔・中原有象の子。官位は従四位上・伊勢守。
経歴
村上朝の応和3年(963年)明経得業生に補せられると、康保3年(966年)明経試を課され、翌康保4年(967年)及第する。
兵部少録・造酒権佑を経て、円融朝の天元3年(980年)権少外記に任ぜられると、天元4年(981年)少外記、永観2年(984年)大外記と外記局で順調に昇格し、同年10月に従五位下・肥前守に叙任されて地方官に遷った。
一条朝初頭の永延元年(987年)明経博士に任ぜられると、永祚元年(989年)従五位上・大外記に叙任され、再び外記局に戻る。致時は中原氏として初めて大夫外記となり、以降、大夫外記は中原氏が代々世襲するようになった。大外記の傍らで明経博士・主税権助を兼ねる一方で、丹波介・播磨介などの兼国にも与り、この間の正暦4年(993年)正五位下に昇叙されている。
長徳4年(998年)信濃守に任ぜられて再び外記局を去ると、長保3年(1001年)造宮の功労により従四位下と四位に昇り、寛弘元年(1004年)従四位上・伊勢守に叙任された。
三条朝初頭の寛弘8年(1011年)7月8日卒去。
人物
勅撰歌人として『後拾遺和歌集』に1首の和歌作品が採録されている[2]。
官歴
『地下家伝』による。
系譜
脚注
- ^ 『勅撰作者部類』
- ^ a b c 『系図纂要』
- ^ 『仁和寺文書』。『尊卑分脈』『系図纂要』では師任の子とするが、師任の子が妥当か(宝賀[1986: 1178])
参考文献