『ワン・アメリカン・ムービー』(One A.M.)は、ジャン=リュック・ゴダールとD・A・ペネベイカーが共同監督作品として1968年に撮影を開始、ゴダールが完成を放棄したアメリカのドキュメンタリー映画。その後、1972年、ペネベイカーの手により『1PM』として完成、公開された。
現在も日本未公開であり、日本ではゴダールが当初つけたタイトルの和訳で知られる。ただし、日本以外では完成後の『1PM』ないしは『One P.M.』のタイトルで知られる。
概要
1960年代初頭、ペネベイカーはフランス・パリに滞在中、シャイヨ宮のシネマテーク・フランセーズでヌーヴェルヴァーグの映画作家ジャン=リュック・ゴダールと出会い、映画を共同製作する話が持ちあがった。ゴダールは即座に準備することが可能で、リーコックとペネベイカーもすぐ撮影にとりかかるつもりであったが、結局頓挫してしまった。
数年後、ゴダールのオファーで再び話が持ちあがる。今回は、アメリカの公共テレビ局PBSも出資に合意した。ヴェトナム反戦運動にともなって五月革命がパリで起きたように、カリフォルニア州でも起きるというゴダールの主張で、1968年にアメリカのカリフォルニア州バークレー、ニューヨーク・マンハッタンのウォール街とハーレム、ニュージャージー州ニューアークで撮影が行われた。[1]。
本作のメインは、ブラックパンサー党のエルドリッジ・クレヴァー、当時ヴェトナム反戦の戦闘的活動家だったTom Hayden|トム・ヘイデン、企業の弁護士ポーラ・マダー(Paula Madder)へのインタビューである。なかでもクレヴァーは、このインタビューの直後に党との方針の違いでアルジェリアに亡命する。ヘイデンは、この撮影直後の同1968年8月末に[2]、イリノイ州シカゴで行われた民主党全国大会にヴェトナム戦争反対のデモンストレーションを行ない、いわゆる「シカゴ・セブン」として逮捕される。まさにゴダールの予測通り、激動の時代が動く姿を本作でとらえたことになる。
ほかにも、のちにユニセフ執行理事となる平和運動家のキャロル・ベラミーや、ビートジェネレーションの詩人・劇作家のエイミリ・バラ、のちに『ゴダールのリア王』(1987年)とその先行スピンアウト作品『ウディ・アレン会見』(1986年)のプロデューサーとなるトム・ラディ、ロックバンドのジェファーソン・エアプレイン[注釈 1]、前年ゴダールと結婚したばかりのアンヌ・ヴィアゼムスキーも登場する。
撮影後のゴダールは、本作の完成を放棄し、パリに戻って「ジガ・ヴェルトフ集団」の活動に没入する。ロンドンで『ブリティッシュ・サウンズ』、チェコスロバキアで『プラウダ (真実)』、イタリアで『東風』や『イタリアにおける闘争』を矢継ぎ早に撮影するのは、翌1969年のことである。1970年には『勝利まで』(未完)を撮るべくパレスチナへ向かう。一方ペネベイカーは、この貴重なフィルムを編集し、1971年には完成させる[1]。1972年2月10日に、『ワン・アメリカン・ムービー』から『1PM』と改題し、アメリカで公開された。
ちなみにヘイデンは、ゴダールが「ジガ・ヴェルトフ集団」名義で1972年に撮った『万事快調』に出演した「ハノイ・ジェーン」ことジェーン・フォンダと、1973年に結婚(1990年離婚)。同年7月7日にもうけた一児が現在俳優のトロイ・ギャリティである。ヘイデンの「シカゴ・セヴン」の事件はゴダールをインスパイアし、1970年、やはり「ジガ・ヴェルトフ集団」名義で『ウラジミールとローザ』を撮影することになる。
作品データ
スタッフ
キャスト
脚注
注釈
- ^ 1968年12月7日、ミッドタウンのホテル・スカイラーの屋上で「ハロー、ニューヨーク!起きろ、クソ野郎ども!音楽はタダだ! いい曲だ!自由な愛だ!」と叫んだ後、「ザ・ハウス・アット・プーニール・コーナーズ」を演奏した。この騒音騒ぎにニューヨーク市警が駆けつけ制止、ライヴ・パフォーマンスは1曲のみの演奏で終了した。この演奏場面とともにビル街の窓からのぞく人々や街の群衆、警察の制止など一部始終がフィルムに収められた。このゲリラ的なライヴはビートルズの「ルーフトップ・コンサート」の元ネタだったと言われているが、真偽のほどは定かではない[3][4]。
出典
外部リンク
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共同監督 | |
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関連事項 | |
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監督作品以外の おもなジャン= リュック・ゴダール 出演作品 | |
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