"キャプテン" ルー・アルバーノ("Captain" Lou Albano、本名:Louis Vincent Albano、1933年7月29日 - 2009年10月14日)は、アメリカ合衆国で活動したプロレスラー、プロレス・マネージャー、俳優。イタリア・ローマ出身、ニューヨーク州マウントバーノン育ち[1]。
ヒールのプレイング・マネージャーとして知られ、1960年代末から1980年代にかけて、地元ニューヨークのWWWFおよびWWFで活躍した[1][2]。
来歴
少年期にイタリアのローマから家族でニューヨークに移住。テネシー大学にてアメリカンフットボールで活動後、アメリカ陸軍を経て、1953年にカナダのモントリオールでプロレスラーとしてデビュー[2]。トニー・アルティモア(トニー・アンジェロ)とのイタリア系ギャングスター・ギミックのタッグチーム、ザ・シチリアンズ(The Sicilians)で活躍し、1961年にはシカゴでミッドウエスト・タッグ王座を獲得[1]。その後WWWFに進出し、1967年にアーノルド・スコーラン&スパイロス・アリオンからWWWF USタッグ王座を奪取した[3]。
アルティモアとのコンビ解消後はマイクパフォーマンスの才能を活かし、1969年よりWWWFでイワン・コロフのマネージャーに転身。1971年1月18日にはブルーノ・サンマルチノからWWWF世界ヘビー級王座を奪取させることに成功した[4]。以降、フレッド・ブラッシーやグラン・ウィザードと共に、ビンス・マクマホン・シニア時代のWWWF / WWFを代表する悪徳マネージャーとしてブーイングを浴び続けた[1]。
自他ともに認める悪相の持ち主であったことから、ゴージャスなブラッシーや頭脳派のウィザードと比べ野卑で単細胞なイメージを売り物にし、TVインタビューでゲップを連発するなど意図的に下品な振る舞いをしていた。頬に安全ピンでゴムバンドを括り付けるなど、ビジュアル面でもブラッシーやウィザード同様にファンに強いインパクトを与えたが、どことなくユーモラスで憎めないキャラクターも支持され、後にベビーフェイスとしても人気を集めることになる[5]。
1983年、シンディ・ローパーの『ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン』のミュージック・ビデオにローパーの横柄で保守的な父親役で出演(出演のきっかけは、プエルトリコ・サンフアンでのコンサートを終えたローパーがニューヨークに戻る飛行機内でアルバーノと出会い、彼に興味を持ったことによる[6])。同曲は大ヒットし、さらなるビジネスの拡大を目論んだローパーのマネージャー(デビッド・ウルフ)のアイデアで、1984年よりWWFにてローパーとアルバーノの対立アングルがスタートする。同時期、WWFはビンス・マクマホン・ジュニアの新体制下に入っており、マーケティング戦略においても新機軸を次々と打ち出していた。同年7月23日、"The Brawl to End It All" と銘打ち、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにてローパーとアルバーノの代理対決、ウェンディ・リヒター対ファビュラス・ムーラ戦が行われる[7][8]。両者がセコンドに付いたこの試合はMTVで放送され大反響を呼び、ロックン・レスリング(Rock 'n' Wrestling)という新しいコンセプトが誕生、翌年のレッスルマニアへの試金石ともなった[6][9]。
ローパーとの一連のアングルにより、アルバーノのユニークな個性はプロレスファン以外の一般層からも認知され、1985年からはベビーフェイスのマネージャーに転向。旧敵のハルク・ホーガンやアンドレ・ザ・ジャイアントとも共闘し、その陽気なキャラクターで主に子供ファンの人気を獲得した。1986年の末にWWFを離れ、その後は俳優としてショービジネス界で活躍。1989年の "The Super Mario Bros. Super Show!" ではマリオ役を演じた。
1994年、フェイスターンしたヘッドシュリンカーズのマネージャーとして一時WWFに復帰。1996年にはWWE殿堂に迎えられた[10]。以降もオールドタイマーのリユニオン・イベントに登場し、WWEの番組にも時折出演していた。2009年10月14日、76歳で死去[11]。
担当選手
- タッグチーム
自身がタッグ出身ということもあり、マネージャー時代はタッグチームを手掛ける場合が多く、初代王者チームとなったタイラー&グラハムを皮切りに、担当したほとんどのチームをタッグ王座に就かせた(上記はUSエクスプレス以降がベビーフェイス転向後の担当チーム)[2][12]。
獲得タイトル
脚注
外部リンク