ルイーズ・マリー・アデライード・ド・ブルボン=パンティエーヴル (Louise Marie Adélaïde de Bourbon-Penthièvre , 1753年 3月13日 - 1821年 6月23日 )は、オルレアン公 ルイ・フィリップ2世 (別名フィリップ・エガリテ)の妻。
マドモワゼル・ディヴリー(Mademoiselle d'Ivry)、マドモワゼル・ド・パンティエーヴル(Mademoiselle de Penthièvre)、シャルトル公爵夫人(Duchess de Chartres)、オルレアン公爵夫人(Duchess d'Orléans)、あるいはオルレアン公爵未亡人(Duchesse douairière d'Orléans)、親王妃(プランセス・デュ・サン, Princesse du sang par marriage )等と呼ばれた。
生涯
パンティエーヴル公ルイ・ジャン・マリー (ルイ14世 と公妾モンテスパン侯爵夫人 の孫)とマリー・テレーズ・デスト=モデーヌ (モデナ公 フランチェスコ3世 と妃カルロッタ の娘、及びルイ14世と公妾モンテスパン侯爵夫人の曾孫)の娘として現在のパリ1区 にある トゥールーズ伯邸 (フランス語版 ) [ 1] で生まれた。
生後翌年に母親マリー・テレーズが亡くなった。当時の貴族女子が一般的に修道院で教育を受けるように4歳の時、パリ郊外モンマルトルの丘 の中腹にあるベネディクト会 女子修道院[ 2] に入れられた。
兄ランバル公ルイ・アレクサンドル が、その妻ランバル公妃マリー・ルイーズ との間に子がないまま1768年 に早世したため、パンティエーヴル公家唯一の女子相続人となった。
1769年 6月、ルイ・フィリップ2世 と結婚。5子を生んだ。夫ルイ・フィリップは愛人ジャンリ夫人 を子供の家庭教師にし、ジャンリ夫人は公爵家の子供に対して大きな影響力を持ったため、ルイーズ・マリーは夫や子供に対する自分の立場が奪われたことを苦悩していた。
フランス革命 時は1793年 ノルマンディー ・ヴェルノン のビジー城 (フランス語版 ) に幽閉される。オルレアン家の財産が没収されると夫ルイ・フィリップ2世、次男モンパンシエ公アントワーヌ・フィリップ、三男ボージョレー伯ルイ・シャルルらは共にマルセイユ のサン・ジャン城 (フランス語版 ) で幽閉される。
ルイーズ・マリーは兄嫁であるランバル公妃マリー・ルイーズ の虐殺やルイ16世 の処刑に怯えたが、1793年 11月6日 の夫ルイ・フィリップ2世処刑の際は気丈に振舞い、看守達を驚かせている。「平等のフィリップ(フィリップ・エガリテ)」と自称した夫のニックネームから、その後「エガリテ未亡人」(Veuve Égalité)と国民に呼ばれた。1796年 に次男モンパンシエ公と三男ボージョレー伯とともに釈放されるが、モンパンシエ公とボージョレー伯はアメリカ合衆国 に亡命した。1797年 にブルボン家 の人間に国外退去命令が出ると、残されたオルレアン家一族と共にスペイン へ移住した。
1814年 、ルイーズ・マリーはフランスに帰国したが、長男ルイ・フィリップ の国王即位を見ることなく、1821年 にイヴリー=シュル=セーヌ の城で死亡した。死因は乳癌 であった。
子女
ルイ・フィリップ (1773年 - 1850年 - オルレアン公、のちのオルレアン朝フランス王 (七月王政 、1830年 - 1848年)
アントワーヌ・フィリップ(1775年 - 1807年) - モンパンシエ公
ルイーズ・マリー・アデライード (1777年 - 1847年)
女児(1777年、ルイーズ・マリーの双子の姉妹、夭折)
ルイ・シャルル(1779年 - 1808年) - ボージョレー伯
脚注
^ トゥールーズ館、現在のパリ1区・フランス銀行 本店建物に用いられている。
^ 現在のパリ18区 、サクレ・クール寺院 界隈にあった修道院 。モンマルトル女子修道院 (fr )。サン・ドニ教会堂 (サン・ドニ大修道院教会堂)も置かれていた。
関連項目