リシュリュー元帥
第3代リシュリュー公爵ルイ・フランソワ・アルマン・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシ (仏 : Louis François Armand de Vignerot du Plessis, duc de Richelieu , 1696年 3月13日 - 1788年 8月8日 )は、フランス の貴族、軍人。内廷侍従長、陸軍元帥 としてブルボン朝 のフランス王ルイ14世 ・ルイ15世 ・ルイ16世 の3代に仕えた。
リシュリュー 枢機卿 の大甥 にあたる第2代リシュリュー公アルマン・ジャン・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシ (英語版 ) の子。同時代のデギュイヨン公爵エマニュエル・アルマン・ド・リシュリュー は甥。どちらも元帥 の称号を持つので紛らわしいが、歴史書ではより有名なこちらの人物をリシュリュー元帥と、甥の方はデギュイヨン公爵と記す場合が多い。フランス復古王政 期の首相 を2度務めた第5代リシュリュー公アルマン・エマニュエル は孫に当たる。
生涯
1696年にパリ で誕生、ルイ14世が名付け親となった。スペイン継承戦争 の終盤に当たる1712年 にヴィラール 元帥のもとでランドルシー解囲戦 に参戦したが、1711年 にバスティーユ要塞 に投獄されたこともあり、1716年 に決闘 の罪で、1719年 にはルイ15世の摂政 であるオルレアン公 フィリップ2世 失脚を目論んだメーヌ公妃ルイーズ・ベネディクト・ド・ブルボン とスペインの駐仏大使チェッラマーレ公 (英語版 ) の陰謀(チェッラマーレ陰謀事件 (英語版 ) )に加担した罪で3度投獄された。フィリップ2世の娘カルロッタ・アグラエ・ドルレアンス と恋愛騒動を起こしたことも投獄に繋がった。
こうした身持ちの悪さにもかかわらずルイ15世からは内廷侍従長として重用され、1725年 から1729年 の4年間はオーストリア 駐在大使を務めウィーン に滞在した。また、ルイ15世にネール姉妹 を斡旋した首謀者と見なされており、特に従妹のシャトールー公爵夫人 との関係は密接でしばしば手紙で宮廷の情報を交換し合っていた。ポーランド継承戦争 、オーストリア継承戦争 に参戦、1743年 のデッティンゲンの戦い と1745年 のフォントノワの戦い でフランス軍に従軍した一方、1744年 のシャトールー公爵夫人の死後ルイ15世の公妾 となったポンパドゥール夫人 が勢力を振るうようになるとはじめは抵抗したが、後に抵抗の不利を悟って恭順の姿勢を示した[ 1] 。
七年戦争 にも参戦して1756年 にメノルカ島 攻略を計画・指揮してイギリス から奪取(メノルカ包囲戦 )、翌1757年 にドイツ戦線の司令官をデストレ公 から引き継ぎイギリスの大陸領でもあるハノーファー を侵略してイギリス軍を追い詰めたが、イギリス軍司令官のカンバーランド公 ウィリアム・オーガスタス とクローステル・ツェーヴェン協定 を結び撤退した(ハノーファーの侵略 (英語版 ) )。戦後フランス政府から汚職と協定が寛大過ぎると非難され辞職、軍人としての評価は高くない。
七年戦争の拙い指揮でしばらく政治活動ができなかったが、1764年 のポンパドゥール夫人の死後、後釜にデュ・バリー夫人 を据えることに成功して復活した。しかし、希望していた大臣職の就任は叶わず名目上のラングドック 総督にされて政治から遠ざけられ、1774年 にルイ15世が死去、孫のルイ16世が即位すると王妃マリー・アントワネット がデュ・バリー夫人と甥のデギュイヨン公を嫌っていた影響で宮廷にも活躍の場は無くなり、1788年に92歳の高齢で死去。息子のルイ・アントワーヌ・ソフィー (英語版 ) が爵位を継承した[ 2] 。
リシュリューについて有名なのは様々な逸話、特に女性関係とルイ15世の愛妾に関わる話である。彼は当代きっての放蕩児と知られ、美人を見れば求め、また求められた。似たもの同士のカサノヴァ との交友もよく知られている。またアカデミー・フランセーズ の一員で、ヴォルテール と交流が深く、ジャン=ジャック・ルソー とも知り合いで、愛人であったエミリー・デュ・シャトレ とは愛人関係の解消後も交際を続けた。一方、デュ・バリー夫人の宮廷入りで失脚した宰相ショワズール からは失脚に関与したと恨まれ、ルイ15世をそそのかし陰謀で成り上がった凡庸な貴族とルイ15世共々回想録で非難されている[ 3] 。
脚注
^ グーチ、P113、P136 - P156、P201 - P203。
^ グーチ、P317 - P325、P369。
^ グーチ、P333 - P334。
参考文献
関連項目