第5代リシュリュー公爵アルマン・エマニュエル・ソフィー・セプティマニー・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシ(仏: Armand Emmanuel Sophie Septimanie de Vignerot du Plessis, 5e duc de Richelieu, 1766年9月25日 - 1822年5月17日)は、フランス復古王政時代の政治家である。フランス革命戦争とナポレオン戦争の間は、王党派の一人として大将の地位にいながら、ロシア帝国陸軍において将校として仕えた。
結婚して間もなく自分の教師と共に旅行にでかけジェノヴァ、フィレンツェやヴェネツィアを訪問、外国旅行から3年後に王妃マリー・アントワネットの近衛連隊に入り、翌年にはルイ16世のもと年老いた祖父が宮廷で務めた内廷侍従長(premier gentilhomme de la chambre)の地位を受け継いだ。内廷侍従長はヴェルサイユ宮殿では毎日の崇高な儀式「ルヴェー(lever)」と宮廷人の儀式の間に王の傍に侍ることが務めであり、若年にしてシノンの清教徒的な厳格さが宮廷の評判となったのである。
1788年に祖父が没すると父はリシュリュー公領を相続、シノン伯爵からフロンサク公爵(duc de Fronsac)にあらたまったアルマンは1789年には騎兵隊の中のエステルハージ連隊の隊長を務めている。同年の10月5日、ヴェルサイユ行進が始まった時はパリにいて国王一家の安全を危惧し[1]、変装すると群衆に紛れ込んで王と王妃に警告すべくヴェルサイユに向かったのだが、路上の多くの人々を突破することが出来ず林の近道を取る。怒れる群衆が宮殿前に集まったちょうどその時に到着するとマリー・アントワネットのもとへ駆けつけ王の部屋へ避難するよう要請しようとする。そうすれば間違いなく王妃の命は長らえるだろうと考えたのだ[2]。
Great part of Richelieu's correspondence with Pozzo di Borgo, Capo d'Istria and others, with his journal of his travels in Germany and the Turkish campaign, and a notice by the duchesse de Richelieu, is published by the Imperial Historical Society of Russia, vol. 54.
There is an exhaustive study of his career by Léon de Crousaz-Crétet, Le Duc de Richelieu en Russie et en France (1897), with which compare an article by L(éon). Rioult de Neuville in the Revue des questions historiques (Oct. 1897)
See also R. de Cisternes, Le Duc de Richelieu, son action aux conférences d'Aix-la-Chapelle (1898), containing copies of documents.