Johann Adam Kulmus
ヨーハン・アーダム・クルムス (独 : Johann Adam Kulmus 、1689年 3月23日 - 1745年 5月30日 )は、ドイツ (プロイセン )の解剖学者 。杉田玄白 や前野良沢 らが翻訳を行った『解体新書 』の主原著である『ターヘル・アナトミア 』(独 : Anatomische Tabellen 、『解剖学図表』、1722年)の著者である。従妹に詩人 ・喜劇作家のルイーゼ・ゴットシェット (Luise A. V. Gottsched )がいる。
生涯
シロンスク・ピャスト 領ブレスラウ(現・ポーランド のヴロツワフ )でパン屋を営む父アーダムと母マリーアとの間に産まれた。両親の急死後、9歳年上の兄ヨーハン・ゲーオルク(Johann Georg Kulmus)に引き取られ、私立のマリーア・マグダレーネン ・ギムナジウム へ通う。1704年、兄と共にダンツィヒ へ渡りアカデミッシェン・ギムナジウムへと転入し名だたる教師陣の講義を聴く。1711年にハレ に移りクリスティアン・ヴォルフ から数学 を、フリードリッヒ・ホフマン (Friedrich Hoffmann )、ゲーオルク・シュタール 、ミーヒャエル・アルベルティ (Michael Alberti )らから医学 を学ぶ。フランクフルト に寄って直ぐにライプツィヒ に向かい、ヨーハネス・ボーン (Johannes Bohn )とアウグスト・クイリヌス・リヴィヌス (August Q. Rivinus)に教えを請う。そしてイェーナ 、アルトドルフ 、シュトラスブルク を転々と遊学し辿り着いたバーゼル で1719年 に学位を得た。その後オランダに渡りヘルマン・ブールハーフェ 、ベルンハルト・アルビーヌス (Bernhard F. Albinus )、ガーブリエル・ファーレンハイト らの下で研究者として働く。1721年にエーベリング出身のコンコルディア・ロイシュナー(Concordia Leuschner)と結婚。そして1725年に科学者としての実務経験を備えた内科医としてダンツィヒにもどり、母校でかつての師の一人ヨハネス・グローゼンメイヤー(Johannes Glosenmeyer)の後を襲い医学と物理学を教えた。1736年からは市医師(Stadtphysicus)を専任する。1745年、56歳で没。
『解体新書』の原著者
『ターヘル・アナトミア』(複製)。国立科学博物館 の展示。
28枚の図表について解説した『解剖学図表』(いわゆるターヘル・アナトミア )は1722年にダンツィヒ で出版され、その後も版を重ねラテン語 、オランダ語 、フランス語 に翻訳された。1734年にオランダ人医師ヘラルト・ディクテン(Gerard Dicten)によってオランダ語に翻訳されたものが日本にもたらされ、杉田玄白 や前野良沢 らによって複数の解剖学図表を参考に日本語訳され、1774年に『解体新書 』として出版された。
著書
Anatomische Tabellen daraus des gantzen menschlichen Körpers und aller dazugehörigen Theile Beschaffenheit und Nutzen deutlich zu ersehen ...: Nebst dazu gehörigen Kupffern gestellet hat , Beughern, Dantzig 1722