1984年10月、ファースト・アルバム『エイジ・オブ・コンセント(英語版)』がリリースされた。この「性的同意年齢(Age of consent)」と題するアルバムのレコードジャケット内側には、ヨーロッパ各国のゲイ同士における性的同意年齢が列挙されていた[13]。イギリスの場合は異性間の性行為同意年齢16歳に対し、男性同士の同意年齢は21歳と厳しく、ヨーロッパにはイギリスより同性愛者に寛大な国が多く存在した。当時の苦労についてブロンスキは、「ロンドンは地方に比べればゲイにとっては住みやすい環境だったね。僕らはデビュー当初からカミングアウトしていたから、ファンに嫌われたり売り上げが落ちる心配をすることもなかったよ」と回想している[5]。アルバムは全英アルバムチャートで4位と大ヒットしたほか[7]、アメリカで36位、オーストラリアで12位を記録した。
1985年、バンドはマーク・アーモンドと組んでドナ・サマーの「アイ・フィール・ラヴ(英語版)」のカバー・バージョンを録音した。フル・バージョンは同じくサマーの「ラヴ・トゥ・ラヴ・ユー・ベイビー(英語版)」と、ジョン・レイトン(英語版)の「霧の中のジョニー」の一部を交えたメドレー仕様となっていた。このコラボレーションは成功し、全英3位に入るなど「スモールタウン・ボーイ」に次ぐヒットとなった[16]。なおマーク・アーモンドは「アイ・フィール・ラヴ」が大のお気に入りだったにもかかわらず、元の歌詞を見ていなかったため「Falling free, falling free, falling free」と歌うべき部分を、誤って「Whatll it be, whatll it be, whatll it be」と歌っている[17]。
この時期バンド内では個人的な確執あるいは音楽性の相違から緊張が高まり、遂に1985年の夏、ソマーヴィルの脱退に至ってしまった。ソマーヴィルはリチャード・コールズ(英語版)とコミュナーズを結成し、ブロンスキ・ビートは代わりのボーカルを探すこととなった。ソマーヴィル脱退前に完成していたシングル「Run From Love」は、既にポリグラム[注釈 2]によりプロモーションが開始されていたが、この事態を受けてリリース中止となった。「Run From Love」はその後、リミックス曲やB面を集めたコンピレーション・アルバム『陶酔の飾り砂糖』に、「アイ・フィール・ラヴ」と共に収録され日の目を見た。
1985年-1995年: ジミー・ソマーヴィル脱退後
1985年11月、新ボーカリストにジョン・フォスター[注釈 3]を迎えたブロンスキ・ビートは、シングル「パーフェクト・ビート(英語版)」をリリース、全英3位を筆頭にヨーロッパでヒットを飛ばし[16]、やがてオーストラリアにも波及した[11]。この曲はまた同年の映画『ブレジネフへの手紙(英語版)』で使用され、サウンドトラック・アルバムに収録された[18]。
続くシングル「カモン、カモン」は全英チャート20位、1986年5月リリースのアルバム『トゥルースデア、ダブルデア(英語版)』は全英チャート18位を記録した。ニューヨークに住むゲイの生活を描いた映画『別れの一瞥(英語版)』のサウンドトラックに、ブロンスキ・ビートのファースト・アルバムから「ホワイ?」、「ラヴ&マネー」、「スモールタウン・ボーイ」が採用された。更にバンドはプロデューサーのマーク・カニンガムと組んでスージー・クアトロやキンクスらと共に、BBCチルドレン・イン・ニード(英語版)というチャリティーのためのシングル作成に参加、デヴィッド・ボウイの「ヒーローズ」をカバーした。このシングルはB面にカニンガムらの手によるオリジナル曲「A Long Way To Go」を収録した7インチ盤が、The County Line名義[注釈 4]でリリースされた[19]。
1987年、フォスターがバンドを去った。ブロンスキとスタインバチェクは2人だけで次のアルバム『Out & About』の制作を開始した。レコーディングはブライアン・パグスレーをエンジニアに迎え、ロンドンのベリー・ストリート・スタジオ(英語版)で行われた。ストロベリー・スウィッチブレイドのローズ・マクドール(英語版)をボーカルに迎えた「Peace and Love」をはじめ、「The Final Spin」、「European Boy」などの曲が生まれ、新曲を携えたツアーも好評を得た。しかしバンドがロンドン・レコードから離脱したため、アルバムは完成することなくプロジェクト中止となった。これらお蔵入りした曲のうち、「European Boy」は1987年ブロンスキ・ビート・プロデュースのもと、イギリスのディスコ・グループ、スプラッシュが7インチ及び12インチのシングルでリリースした。「Peace and Love」は2006年頃から複数のインターネットサイトに投稿されたほか、現在ではブロンスキのSoundCloudアカウントで聴くことができる[20]。同じく1987年、ブロンスキとスタインバチェクはニュー・オーダーと共に国際エイズデー[注釈 5]のためのライブを開催。ロンドン、ブリクストン・アカデミーの会場で、このイベント限定の復帰を果たしたソマーヴィルとトリオでのライブ・パフォーマンスを披露した[21]。
1989年、ジョナサン・ヘリヤーをボーカリストに迎えたバンドは、バッキング・ボーカルにアニー・コンウェイを加えアメリカとヨーロッパを精力的にツアーした。全英32位のヒットとなった「Cha Cha Heels」では、俳優兼シンガーのアーサー・キットとのコラボが実現した[16]。この曲は元々同じく俳優兼シンガーのディヴァインのために書かれたものだったが、1988年の急死によりレコーディングは実現しなかった。1990年から1991年に掛けて、マイク・ソーンのプロデュースによりゾンバ・レコード・レーベルから「I'm Gonna Run Away」「One More Chance」「What More Can I Say」という3枚のシングルがリリースされた。
1993年フォスターがバンドに復帰し、テクノチューンの「Tell Me Why '94」と、対照的なアコースティック・バージョンの「Smalltown Boy '94」が、ドイツのZYXミュージック(英語版)レーベルからリリースされた。翌年リリースされたアルバム『Rainbow Nation』にフォスターは参加せずヘリヤーが復帰した。このアルバムにはまたキーボード及びプログラミング担当としてイアン・ドナルドソンが参加した。
2007年、ブロンスキはイギリスのオルタナティヴ・ロック・バンド、オール・リヴィング・フィアーの「Stranger to None」のリミックスを4バージョン制作し、うち1曲は彼らの回顧的なアルバム『Fifteen Years After』に収録された。また同年北アイルランドのエレクトロニック・バンド、エレクトロブロンズの「Flowers in the Morning」をリミックスし、曲のスタイルをクラシックからHi-NRGに変身させた。