ブレイクニー(Blakeney)は、イギリスの競走馬、種牡馬。主な勝ち鞍は1969年のダービーステークス。引退後、種牡馬としても成功を収めた。
生い立ち
ブレイクニーは馬産家で馬主・調教師でもあったアーサー・バジェット(英語版)によって生産された。父ヘザーセット(英語版)は1962年のセントレジャーステークス勝ち馬である。母ウインドミルガールは1964年のオークスステークス2着の実績があり、繁殖牝馬としても後に2頭のダービー馬(ブレイクニーとモーストン(英語版))を出産した。
ブレイクニーは1歳時にニューマーケットのセリ市に出されたが、セリの直前に他馬に蹴られて怪我をしてしまい、それが原因で売れ残ってしまった[1]。そのためブレイクニーはバジェットの主取りとなった[2]。
戦績
1968年(2歳シーズン)
2歳の秋にデビュー。9月にアスコット競馬場で開催されたクラレンスハウスステークスでは、のちにコロネーションカップを制するキャリバンに次ぐ4着に入線した。1ヶ月後、ニューマーケット競馬場で行われたレースでアーニー・ジョンソン(英語版)が騎乗し初勝利を記録した[3]。
1969年(3歳シーズン)
3歳シーズンは始動が遅れ、ダービーステークスの2週間前に行われるダービートライアルステークスでシーズン初出走。ジェフ・ルイス(英語版)が騎乗し、ザエルクに次ぐ2位でフィニッシュした[4]。
ダービーステークスではニューマーケットでの初勝利以来となるアーニー・ジョンソンが再び騎乗し、15/2のオッズでスタートした。レースはムーンマウンテンがペースを作り、直線で内から抜け出すとラスト1ハロンで先頭に立ち、2着シューメーカーから1馬身差で勝利した[2][5]。
1969年は他に3レースに出走したが、勝利を挙げることはできなかった。6月末のアイリッシュダービーではプリンスリージェント(英語版)の4着、9月のセントレジャーステークスではインターメゾの5着に終わった。シーズン最終レースとなった凱旋門賞ではレヴモス(英語版)の前に敗れ去った[3]。
1970年(4歳シーズン)
4歳シーズンは4月にニューマーケットで行われたジョッキークラブステークスで始動し、5位に終わった。翌5月、チェスター競馬場のオーモンドステークス(英語版)を制してダービー以来の勝利を挙げた。その後、バジェットはブレイクニーをアスコットゴールドカップに出走させることに決めた。アスコットゴールドカップは約4,000mの長距離レースで、1945年のオーシャンスウェル(英語版)以来、ダービーとゴールドカップ両方を勝った馬はいない中での決断であった。距離が大きく異なるにもかかわらず、ブレイクニーは好走しプレシピスウッドの4分の3馬身差の2着に入線した。
7月にアスコットで行われたキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスでは、キャリバン(コロネーションカップ勝ち馬)、クレペラーナ(ディアヌ賞勝ち馬)、カラバス(ワシントンDCインターナショナル勝ち馬)らを抑え、ニジンスキーの2着に好走した[6]。現役最後のレースとなった凱旋門賞はササフラの5着に終わった[3]。
種牡馬時代
ブレイクニーはニューマーケットのナショナルスタッドで種牡馬入りした。初年度でオークスステークス優勝馬のジュリエットマーニー(英語版)を輩出し、その後もジュリオマリナー(英語版)、ターナボス(英語版)、マウンテンロッジ(英語版)、ロゼエイトターン(英語版)などの産駒が主要レースで勝利を収めた。またブルードメアサイアーとしてはダービー勝馬のサーパーシー(英語版)、キングカメハメハの母マンファスなどを出した[7]。
ブレイクニーは1992年11月6日に安楽死させられ、ナショナルスタッドに埋葬された[8]。
血統
脚注
外部リンク