ブラック・アンド・タンズ(英語: Black and Tans, アイルランド語: Dúchrónaigh)[1]は、アイルランド独立戦争中の王立アイルランド警察隊(RIC)が戦力補強を目的に雇用した警察官らの通称である。1920年1月、イギリス本国でのRIC入隊志願者の募集が始まった。このときにイギリス政府の呼びかけに応じて集まった数千人もの志願者はほとんどが第一次世界大戦に従軍した経験を持つイギリス陸軍の復員兵だった。また、大部分はブリテン出身者だったが、少数のアイルランド出身者も含まれていた[2][3]。想定を超えた志願者の数により制服が払底すると、隊員らはイギリス陸軍の褐色野戦服と黒っぽい濃緑色(ライフルグリーン色)をしたRICの制服を組み合わせて着用するようになる。「ブラック・アンド・タン」、すなわち「黒色と褐色」という通称は、この時の入隊者らが着用していた間に合わせの制服に由来する。
1919年5月、海軍卿ウォルター・ロング(英語版)はアイルランド総督ジョン・フレンチに対し、復員兵を募集してRICの補強を行うよう提案した。RIC総監ジョセフ・バーン(英語版)は、元兵士が警察官としての規律に従うか疑わしいとしてこの提案に反対したものの、ロングとフレンチからシン・フェイン派に融和的だと批難された後に解任され、復員兵の募集に同意していた副総監T・J・スミス(T. J. Smith)が総監に昇進した。12月27日、総督府はRIC入隊者募集の範囲を本国まで拡大することを認め、ロンドン、リバプール、グラスゴーに事務所を設置した[7]。
本国での募集
1920年1月、イギリス政府は「荒っぽく危険な仕事に直面する」(face a rough and dangerous task)ことを望む者を求める広告を本国の都市部に掲示し始めた。これに対し、失業中の復員兵を中心に多数の応募があり[注釈 1]、1921年11月までにおよそ9,500人が入隊した。入隊者の数が想定を超えたためにRICの制服が払底すると、大半の入隊者は褐色の陸軍の制服(大抵はズボンのみ)と暗緑色のRIC制服あるいは青色の本国警察の制服(上着、帽子、ベルト)を受け取ることとなった。クリストファー・オサリバン(Christopher O'Sullivan)は1920年3月25日付『Limerick Echo』紙に寄せた記事で、リムリック・ジャンクション駅(英語版)で出会った入隊者の一団について、スカーティーン(英語版)で行われる狐狩り(スカーティーン・ハント)を思い出したとしている。スカーティーン・ハントで猟犬として使われるケリー・ビーグルはブラック・アンド・タン、すなわち胴体が黒く脚が褐色という毛色をしており、褐色のズボンと黒っぽい上着を着用した入隊者をこれに擬えたのである[9]。エニス出身のコメディアン、マイク・ノノ(Mike Nono)がこのエピソードを元にしたジョークをステージで語ったことで、「ブラック・アンド・タンズ」という通称はまたたく間に普及し[9]、隊員が上下揃いの制服を受け取るようになっても廃れることはなかった。
隊員の待遇は比較的良く、日給10シリング(半ポンド)、3食宿付き(full board and lodging)というものだった。彼らは警察官として最低限の訓練を施されており、警察施設や監視所の戦力を補強するために派遣され、歩哨、警備員、政府職員の護衛、一般警察の援護、群衆整理などの任務に従事した。一連の対反乱作戦に参加するようになると、オークジズと共に「テューダーのごろつき共」(Tudor's Toughs)とも呼ばれるようになった。この呼び名は警察顧問として作戦の指揮を執ったヘンリー・ヒュー・テューダー(英語版)少将に由来する。その任務の性質のため、共和主義者からは「占領軍の一部」と見なされた。作戦を通じ、彼らは残忍な行いによって恐れられるようになった[12]。RICがIRAおよびシン・フェイン党のメンバーに対する攻勢を強める一方、警察組織によるIRAへの報復は当局によって黙認されていたためである[13]。
1921年、イギリス労働委員会(British Labour Commission)は、アイルランドの情勢に関する報告書を提出し、この中で政府の安全保障政策を強く非難した。政府はブラック・アンド・タンズの編成時、「解放軍であり、支配者として振る舞うことはありえない」(liberated forces which it is not at present able to dominate)としていた。しかし、1920年12月29日以降、政府はアイルランドにおける「公的な報復」(official reprisals)の実施を認めた。これは典型的にはIRAメンバーおよびシンパと思しき者の財産への放火という形で行われた。RICでの規律改善が進められたことで、1920年3月以降はブラック・アンド・タンズによる残虐行為は減少した。隊員らの個人的な感情による報復が抑制され、命令に基づいた報復のみが実施されるようになったためである[15]。
ブラック・アンド・タンズによる活動について、アイルランドとイギリスの世論は共に冷ややかだった。暴力的な戦術に対し、アイルランド国民はIRAに対する水面下での支援を増やすことで応じたし、イギリス国民からは平和的な解決を求める動きが出始めていた。庶民院議員エドワード・ウッドは、武力行使の停止およびアイルランドに対する「最も寛大なラインで考慮された」提案を行うことを政府に求めた[16]。庶民院議員ジョン・サイモン卿も、ブラック・アンド・タンズが採用する戦術に恐怖を感じている旨を語った。ライオネル・ジョージ・カーチス(英語版)は、『ラウンドテーブル・ジャーナル(英語版)』誌に寄せた記事の中で、「こうした手段に寄らねばイギリス連邦を保持できないのなら、それは連邦を支えた原則の否定にほかならない」(If the British Commonwealth can only be preserved by such means, it would become a negation of the principle for which it has stood)と述べた[17]。さらには英国王ジョージ5世、聖公会主教団、自由党および労働党の議員ら、オズワルド・モズレー、ヤン・スマッツ、労働組合会議、報道機関なども、ブラック・アンド・タンズに対する批判を強めた。マハトマ・ガンディーはイギリスからの和平提案について、「イギリスに不本意な提案を余儀なくさせたのは、さらに人命を失うことに対する恐れではなく、他の何にもまして自由を愛する人々へさらなる苦しみを課すことに対する羞恥である」(It is not fear of losing more lives that has compelled a reluctant offer from England but it is the shame of any further imposition of agony upon a people that loves liberty above everything else)と評した[18]。
ブラック・アンド・タンズの極めて暴力的な振る舞いと彼らが関与したとされる数々の戦争犯罪のため、彼らに対するアイルランドでの関心は依然として強い。「ブラック・アンド・タンズ」という言葉自体も、その残虐性を想起させるとして、未だに快く受け止められない場合が多いという[20]。ブラック・アンド・タン(英語版)は、黒ビールと淡色ビールを重ねたカクテルである。本来ブラック・アンド・タンズとは無関係で、また独立戦争以前から広く知られていたのだが、戦後のアイルランドではこの名が忌避され、ハーフ・アンド・ハーフ(Half and Half)と呼ばれている[21]。
共和主義者の歌った闘争歌のうち最も有名なものとして、ドミニク・ビーアン(英語版)が手掛けた『出てこい、ブラック・アンド・タンズども』(Come Out, Ye Black and Tans)がある。アイルランド独立戦争を指して、「タン戦争」(Tan War)や「ブラック・アンド・タン戦争」(Black-and-Tan War)という言葉が使われることもある。この呼称は内戦時に反条約派として戦った者が好んで用い、現代でも共和主義者らが用いることがある。1941年にアイルランド政府が制定した独立戦争記念章(Cogadh na Saoirse medal)は、独立戦争に従軍したIRAの退役兵らに授与された。この記念章のリボンは黒色と褐色だった[22][23]。
ウィキペディア上の誤情報について
「臨時警察隊として設置され、王立アイルランド警察特別予備隊(Royal Irish Constabulary Special Reserve[24][25])などの正式名称があった」とする文献もあるが、実際にはこうした名称を持つ部隊は存在せず、制度上ブラック・アンド・タンズ隊員は一般のRIC隊員と区別されていなかった[8]。また、当時の英国戦争相ウィンストン・チャーチルの発案によって設置された[26]というのも誤りである[8][注釈 2]。カナダの歴史家デイヴィッド・リーソン(David Leeson)は、これらの誤情報は2002年から2020年まで英語版ウィキペディアの記事に書かれていたものが広まったと指摘し、批判している[8]。
^ abRobert Gerwarth; John Horne, eds. (2013), War in Peace: Paramilitary Violence in Europe After the Great War, Oxford: Oxford University Press, p. 202, "The Black and Tans were the ex-servicemen recruited as RIC constables throughout Britain in late 1919 and constituted a force of approximately 9,000 men before the war's end. However, 'Black and Tans' also came to refer to the temporary cadets of the Auxiliary Division of the RIC, a force of some 2,200 ex-officers, formed in July 1920, and in practice virtually independent of military and policy control. Both forces were made up of veterans from all services. ... Both Auxiliaries and Black and Tans had Irish members."
^Padraig Og O Ruairc, Blood on the Banner, The Republican Struggle in Clare, pp. 332–33
^O'Connell, T. Interrogation and Treatment of republican suspects by the British Auxiliary Forces, 'Black and Tans', January 1921, Irish Historical Documents since 1800, edited by Alan O'Day. Gill and MacMillan. p. 169.
^ abSpellissy, Séan (December 1998). The history of Limerick City. Celtic Bookshop. pp. 87–88. ISBN978-0-9534683-0-0
^ abcAugusteijn, Joost Review of The Black and Tans: British Police and Auxiliaries in the Irish War of Independence, 1920–1921 by D. M. Leeson pp. 938–40 from The Journal of Modern History, Volume 85, Issue # 4, December 2013 p. 939.
^Gibbons, Ivan (2013-05-14). “The British Parliamentary Labour Party and the Government of Ireland Act 1920”. Parliamentary History32 (3): 506–521. doi:10.1111/1750-0206.12024. ISSN0264-2824.