この神殿はアポロ・エピクリオス(「加護を与える神アポロ」)に奉献されたものである。『ギリシャ記』を記したパウサニアスは、建造した人物としてヘファイストス神殿やパルテノン神殿を手がけた建築家イクティノスの名を挙げている[3][1]。
パウサニアスは、この神殿を称賛し、その石の美しさと建設の調和によって、テゲアのアテナ・アレア神殿を除く全ての神殿を凌駕すると述べている[4]。
この神殿はコティリオン山の中腹、海抜標高1131 m のところに建てられている。
土台となる床は 38.3 x 14.5 m で、相対的に控えめな大きさといえる[5]。
神殿内部の柱はドーリア式の柱による周柱式が採られており、正面6本に対し側面15本で構成されている。天井は失われているため、中心部はいわゆる青空天井になっている。神殿は大理石に彫られたフリーズを除けば、全体的に、アルカディア地方で産出した灰色の石灰岩が用いられている[6]。
考古遺跡としてのバッサイ神殿について最初に言及をしたのは、フランス人建築家ジョアシャン・ボシェ(Joachim Bocher)で、1765年11月のことであった。彼はザンテ(Zante)に別荘を建てていたところで、その責任者になったのは全くの偶然だった。ただし、彼は二度目の調査に戻って来た時に、暴漢たちによって殺されてしまった[11]。チャールズ・コックレルとハラー・フォン・ハラーシュタイン(Haller von Hallerstein)はアイギナで彫像を救い出していたが、彼らがバッサイで更なる成功を目指したのは、1811年のことだった。翌年、コックレルとオットー・マグヌス・フォン・シュタッケルベルク(Otto Magnus von Stackelberg)の指揮で発掘が始まり、いくつかの部分が出土した。出土品には、ザンテで大英博物館が落札することになるフリーズも含まれていた。この遺跡については注意深く描かれたスケッチも存在していたが、それは海中に没した[12]。フリーズの彫刻群はまず1814年にローマで出版され、1820年には大英博物館が公式資料を刊行した。
^William Bell Dinsmoor, "The Temple of Apollo at Bassae" Metropolitan Museum Studies4.2 (March 1933:204-227) p 204, notes Bocher's drawings, acquired by the Victoria and Albert Museum in 1914.