1878年8月17日のヴァニティ・フェア 誌に掲載されたカリカチュア 。
第3代テンターデン男爵 チャールズ・ステュアート・オーブリー・アボット (英語 : Charles Stuart Aubrey Abbott, 3rd Baron Tenterden KCB 、1834年 12月26日 – 1882年 9月22日 )は、イギリス の貴族、外交官。
生涯
チャールズ・アボット(Charles Abbott 、1803年 – 1838年12月15日、初代テンターデン男爵チャールズ・アボット (英語版 ) の次男)とエミリー・フランシス・ステュアート(Emily Frances Stuart 、初代ビュート侯爵ジョン・ステュアート の娘)の息子として、1834年12月26日にロンドン で生まれた[ 1] 。イートン・カレッジ で教育を受けた後[ 2] 、1854年に秘書官[ 1] として外務省 に入り、1865年にポルトガル王国 に派遣された使節団[ 注釈 1] で秘書官として随行してポルトガルから塔と剣勲章 (英語版 ) を授与された[ 1] 。1866年、外務大臣 の第15代ダービー伯爵エドワード・スタンリー の要約筆者(précis writer )に任命された[ 2] 。1871年、ワシントンD.C. に派遣された使節団[ 注釈 2] で秘書官を務め、アラバマ号事件 (英語版 ) に関する大法官 の初代ハザーレイ男爵ウィリアム・ウッド (英語版 ) の声明を起草した[ 2] 。同年から1873年まで外務省事務次官補佐(Assistant Under-Secretary for Foreign Affairs )を、1873年から1882年まで外務省事務次官 を務めた[ 1] 。1878年のパリ万国博覧会 にはイギリス代表団の1人として出席した[ 2] 。
1870年4月10日に伯父にあたる第2代テンターデン男爵ジョン・ヘンリー・アボット が死去すると、テンターデン男爵 位を継承した[ 1] 。翌年にバス勲章 コンパニオンを授与され、1878年にバス勲章ナイト・コンパニオンを授与された[ 1] 。
フリーメイソン としても活躍し、1879年7月2日にエセックス 州におけるフリーメイソンのグランドマスターに就任した[ 2] 。
1882年9月22日に脳内出血 によりリンマス (英語版 ) で死去、ブレンドン (英語版 ) で埋葬された[ 1] 。1人目の妻との間の息子チャールズ・ステュアート・ヘンリー が爵位を継承した[ 1] 。
家族
1859年8月2日、ペネロープ・メアリー・ガートルード・スミス(Penelope Mary Gertrude Smyth 、1879年3月30日没、サー・ジョン・ローランド・スミス (英語版 ) の娘)と結婚した[ 1] 。ペネロープの母キャサリン・アリス・アボット(Catharine Alice Abbott )は初代テンターデン男爵、すなわち第3代テンターデン男爵の父方の祖父である[ 1] 。
1880年1月13日、エマ・メアリー・ベイリー(Emma Mary Bailey 、1896年以降没、チャールズ・ベイリーの娘)と再婚した[ 1] 。
注釈
出典
^ a b c d e f g h i j k Cokayne, George Edward , ed. (1896). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (S to T) (英語). Vol. 7 (1st ed.). London: George Bell & Sons. pp. 378–379.
^ a b c d e Henderson, Thomas Finlayson (1885). "Abbott, Charles Stuart Aubrey" . In Stephen, Leslie (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 1. London: Smith, Elder & Co . p. 30.