初代準男爵 サー ・フレデリック・チャールズ・ダブトン・スターディー 海軍元帥 (英語 : Sir Frederick Charles Doveton Sturdee, 1st Baronet ,GCB KCMG CVO 、1859年 6月9日 - 1925年 5月7日 )は、イギリス の海軍 軍人 。1914年 、フォークランド沖海戦 でマクシミリアン・フォン・シュペー 率いるドイツ東洋艦隊 を破った。
海軍内部においては反主流派に属し、主流派のジャッキー・フィッシャー 提督に対抗する集まり『不満のシンジケート(syndicate of discontent) 』の主要人物であった[ 1] 。
生涯
フレデリック・スターディー海軍大尉とその妻アン・ホドソンとの息子としてケント 、チャールトンに生まれた[ 1] 。王立海軍兵学校 (英語版 ) に学んだのち、練習船ブリタニカ (英語版 ) 付士官候補生として海軍 に入隊した[ 1] 。1876年に准尉に昇進、中国戦隊 旗艦アンドーンテッド (英語版 ) 乗組となる。1878年に少尉、続く1880年には中尉となった[ 3] 。同年、ブリッグ船マーティン所属となったのち、翌年からは地中海艦隊 所属の魚雷母艦ヘクラ乗組となる。1882年、ウラービー革命 下のアレクサンドリア砲撃 に参加した。
訓練施設ヴァーノン (英語版 ) にて水雷課程を修了後、1886年に北アメリカ・西インド艦隊 旗艦ベレロフォン (英語版 ) 付の水雷将校となったが、1889年には教官として再びヴァーノンへと舞い戻っている[ 1] 。1893年6月30日、中佐に進級し、海軍工廠局における水雷の専門家として海軍本部に移った。1897年にはオーストラリア戦隊 (英語版 ) に属する水雷巡洋艦ポーポイズ (英語版 ) の艦長となり、1899年にはサモア諸島 をめぐるドイツ帝国 とアメリカ合衆国 との緊迫した情勢[ 注釈 1] への対処に見舞われた[ 1] 。この功績により同年6月に大佐に進んだ。年が改まったのちの新年叙勲 (英語版 ) では聖マイケル・聖ジョージ勲章 を得たほか[ 4] 、1900年3月にはウィンザー城 で女王ヴィクトリア より直接叙勲を受けた[ 5] 。
以降は、海軍情報部副部長として海軍本部に戻り、1902年まで同職にあった[ 1] [ 3] 。同年10月に防護巡洋艦ミネルヴァ (英語版 ) 、翌年には装甲巡洋艦ベッドフォード (英語版 ) 各々の艦長を務めた。1905年、戦艦ブルワーク 艦長・兼地中海艦隊 司令長官付の参謀長に進んだ。戦艦キング・エドワード7世 艦長、戦艦ニュージーランド (英語版 ) 艦長と進み、新たに海峡艦隊 参謀長の役割も担うこととなった[ 3] 。1907年、国王付副官となり[ 7] 、翌年には少将に昇進した[ 3] [ 8] 。1910年に第1戦艦戦隊 (英語版 ) 司令官となり、旗艦セント・ヴィンセント に将旗を掲げている。翌年に海軍本部潜水艦委員会の委員長となり、以降は第3巡洋戦隊、第2巡洋戦隊の司令官(旗艦はいずれもシャノン (英語版 ) )を歴任した。
1913年に中将となった[ 9] [ 3] 。
第一次世界大戦
1914年頃のスターディー。
1914年、第一次世界大戦 が勃発すると、スターディーはサー・ヘンリー・ジャクソン (英語版 ) の後任として、ルイス・マウントバッテン 第一海軍卿 のもとで首席幕僚となった[ 1] 。
その在任中の同年11月、クリストファー・クラドック 提督率いる英艦隊がドイツ東洋艦隊 (指揮:マクシミリアン・フォン・シュペー 提督)への対応として派遣されたが、逆に東洋艦隊に翻弄されてコロネル沖海戦 で完敗を喫した。この大敗北を受けて、海軍中枢に復帰していたジョン・アーバスノット・フィッシャー 第一海軍卿[ 注釈 2] はスターディーを海軍本部から艦隊指揮官に転出させ、東洋艦隊に対応させることに決めた[ 1] 。
12月7日、スターディーの指揮する英艦隊はフォークランド諸島 、ポート・スタンリー に達した[ 1] 。翌8日午前8時、ポート・スタンリー軍港に接近した東洋艦隊と会敵した。スターディー艦隊は火力と速力に秀でた巡洋戦艦 からなり、火力で劣る装甲巡洋艦 によって構成される東洋艦隊を終始圧倒した[ 14] 。特に巡洋戦艦インヴィンシブル (スターディーの旗艦)からの着弾が増え始めると、シュペー提督も著しい不利を悟って、麾下の巡洋艦ドレスデン やニュルンベルク に逃走するよう信号を送った。これ以降もスターディー艦隊は速力を生かしてアウトレンジ により次々と独艦を撃破していく。同日午後4時過ぎ、シュペー提督も大破炎上するシャルンホルスト と運命を共にし、僚艦グナイゼナウ に「脱走して自らを救え」との信号を送りつつ沈んだ[ 14] 。この海戦の結果、逃走した巡洋艦ドレスデンを除いて東洋艦隊は壊滅した[ 14] (フォークランド沖海戦 )。
スターディーはこの勝利によって1916年に準男爵位を授けられた[ 16] [ 3] 。
海戦後はグランド・フリートの第4戦艦戦隊 (英語版 ) 司令官に就任し、戦艦ベンボウ に将旗を掲げた[ 1] 。ただしスターディーはジョン・ジェリコー 司令長官から「独立心旺盛のため秩序を乱しがち」として嫌われていたため[ 注釈 3] 、艦隊の先鋒を任されることがなく諸提督の後塵を拝した[ 17] 。翌年に高速戦艦(クイーン・エリザベス級戦艦 )が就役した際も、ジェリコーから第5戦艦戦隊 (英語版 ) の指揮官に就くことを拒否されている[ 17] 。
1916年のユトランド沖海戦 では、第4戦艦戦隊を率いて参加した[ 3] 。
戦後
スターディーを描いた絵画。(サー・アーサー・コープ 作) 1917年、海軍大将に昇った[ 3] 。大戦後、スターディーは本国議会 から感謝状 と1万ポンドの褒賞金を受け取った[ 1] 。
1918年、ノア管区 司令長官に就任して1921年まで務めている[ 3] 。司令長官退任とともに海軍を退役、同時に海軍元帥 となった[ 19] 。退役後は海事研究学会 (英語版 ) 会長を務めた[ 1] [ 20] 。会長時代は戦列艦ヴィクトリー の修復事業に尽力した[ 1] 。
1925年、サリー 、カンバーリー (英語版 ) にあるウォーグレイヴ・ハウスで死去した[ 1] 。
評価
『英国人名辞典 』では、「有能な艦隊指揮官だが、(第一海軍卿 のもとでの)首席幕僚としては失敗した」と評されている[ 1] 。
栄典
賞罰
イギリス
イタリア
フランス
準男爵位
スターディー家の紋章。
1916年 に以下の準男爵位を新規に叙された[ 16] [ 3] 。
初代(フォークランド諸島の)準男爵 (1st Baronet, of Falkland Is.) (勅許状による連合王国準男爵位)
家族
1882年9月23日にマリオン・アデラ・アンドリューズ(Marion Adela Andrews、1940年没)と結婚した[ 1] 。
脚注
注釈
^ サモア諸島の領有権をめぐって、イギリス、ドイツ、アメリカ合衆国が対立した。1899年に三ヶ国協定 (英語版 ) が結ばれた結果、西経171度線を境として西側をドイツが、東側をアメリカが領有することとなった
^ マウントバッテン第一海軍卿はコロネル沖海戦前の10月に起こったアントワープ 陥落を受けて、チャーチル 海軍大臣から詰め腹を切らされ辞職を余儀なくされた[ 11] 。チャーチル海相は引退していたフィッシャー提督を後任に起用した。フィッシャー提督はすでに第一海軍卿(在任:1904年 - 1910年)を経験しており、在任中は海軍近代化を推進した。
^ 20世紀初頭のイギリス海軍ではジョン・アーバスノット・フィッシャー 提督が絶大な影響力を持っていたが、スターディーは反フィッシャー提督の集まり『不満のシンジケート(syndicate of discontent) 』に属しており、フィッシャー自身からも嫌悪されていたとされる[ 1] 。グランドフリート司令長官のジェリコー卿はフィッシャーの愛弟子にあたる人物。
出典
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q Baddeley, V. W. revised by Andrew Lambert (23 September 2004) [2004]. "Sturdee, Sir Frederick Charles Doveton, first baronet". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi :10.1093/ref:odnb/36364 。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入 。)
^ a b c d e f g h i j Chisholm, Hugh, ed. (1922). "Sturdee, Sir Frederick Charles Doveton" . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 32 (12th ed.). London & New York: The Encyclopædia Britannica Company. p. 599.
^ a b "No. 27154" . The London Gazette (英語). 16 January 1900. p. 286.
^ "Court Circular". The Times (英語). No. 36079. London. 2 March 1900. p. 6.
^ "No. 28079" . The London Gazette (英語). 12 November 1907. p. 7581.
^ "No. 28178" . The London Gazette (英語). 18 September 1908. p. 6760.
^ "No. 28783" . The London Gazette (英語). 19 December 1913. p. 9338.
^ ロバート・ペイン (英語版 ) 著、佐藤亮一 訳『チャーチル』法政大学出版局 「りぶらりあ選書」、1993年(平成5年)、150頁。ISBN 978-4588021466 。
^ a b c 小山内, 宏 著、原田 勝正 ,針生 一郎 ,山田 宗睦 ・編著 編『20世紀の歴史ユトランド沖海戦前後ほか 』 27巻、株式会社日本メール・オーダー 、東京都 品川区 、1974年1月1日、537頁。ASIN B01N9URPEI 。
^ a b "No. 29512" . The London Gazette (英語). 17 March 1916. p. 2932.
^ a b マーレー, ウィリアムソン 、シンレイチ, リチャード 著、小堤 盾 、蔵原 大 訳、今村 伸哉 編『歴史と戦略の本質 - 歴史の英知に学ぶ軍事文化 』 (下)、原書房 、東京都 新宿区 、2011年、32頁。ISBN 9784562046508 。
^ "No. 32394" . The London Gazette (英語). 19 July 1921. p. 5733.
^ Murphy, Hugh & Derek J. Oddy (2010), 『The Mirror of the Seas』; p=26, A Centenary History of the Society for Nautical Research London, Society for Nautical Research. ISBN 978-0-902387-01-0
^ "No. 32178" . The London Gazette (Supplement) (英語). 1 January 1921. p. 4.
^ "New Year Honours". The Times (英語). No. 36027. London. 1 January 1900. p. 9.
^ "No. 27908" . The London Gazette (英語). 27 April 1906. p. 2875.
^ "No. 30227" . The London Gazette (Supplement) (英語). 10 August 1917. p. 8208.
^ "No. 31182" . The London Gazette (Supplement) (英語). 14 February 1919. p. 2361. 2022年3月20日閲覧 。
^ "No. 47160" . The London Gazette (Supplement) (英語). 1 March 1977. p. 2825.
参考文献
外部リンク