コリントス地峡周辺地図(ドイツ語)
コリントス運河 (コリントスうんが、希 : Διώρυγα της Κορίνθου ; 英 : Corinth Canal )は、ギリシャ のコリントス 郊外にある運河 。ペロポネソス半島 の根元にあるコリントス地峡 に開削されたもので、エーゲ海 とコリンティアコス湾 を結び、1893年 に竣工、供用開始。全長6343m。
大きな特徴として、閘門 がなく海と水位が一定であることと、両端部に架かる橋が世界中でこの二カ所しかない降開橋 であることが挙げられる。
概要
運河の水面からの眺め
コリントス運河に架かるイスミア橋(降開橋 )
コリントス運河は、閘門 を持たない水位が一定の運河で、コリントス地峡の丘を一直線に縦断して掘られている。運河の幅は水面部で24.6m、河底部で21m、深さは8m。
コリントス地峡の丘は、高いところでは標高約79mほどである。丘の区間では、両側に高く切り立った崖がせまる細い水路を船が通過する光景が見られる。運河の途中に鉄道橋と道路橋が架かっている。鉄道橋 は長さ約33mほどの鉄橋で、標高60mのところに開口部が設けられ、桁下は52mとなっている。
また、運河の両端部(北西のポシドニア、南東のイスミア (Isthmia, Corinthia ) )にそれぞれ船が通過する時に運河の底に沈む降開橋 があり、観光名所となっている。
この運河の開通で、従来のペロポネソス半島 を西から反時計回りに大きく迂回するルートに比べて航路が400kmあまり短縮された。しかし、川幅が狭いため大型貨物船 の通航はできない。大きな船はタグボート に曳航されて運河を通る。年間11,000隻、一日に換算すると約30隻の船がこの運河を往来するがそのほとんどは観光用の船である。
歴史
運河を通行中の船舶
コリントス地峡 に運河を掘る考えはかなり古くからあり、古代ギリシア 時代、紀元前7世紀 末頃のコリントス の統治者ペリアンドロス もその1人だった。その後も幾度か運河開削の構想がおこっていた。紀元前3世紀ごろ、マケドニア 王デメトリオス1世ポリオルケテス が建設を試み挫折している。古代ローマ 時代にもカエサル やカリグラ 帝も関心をもった。
ネロ 帝の時代になると、実際に大規模な開削が試みられた。67年 にネロ帝は6000人の奴隷 を動員して運河の開削を行い、3.3kmあまりを掘ったが、途中、ローマでガルバ らの反乱が起こりネロは自殺、彼の死後、帝位についたガルバ 帝によって工事は中断された。ネロの時代に計画された運河は現在のコリントス運河があるルートと同じところにあり、古代ローマ の土木建設技術の高さがうかがわれる。
時代が下って、1869年 にエジプト でスエズ運河 が開通すると、これに触発されてギリシアでもコリントス運河建設の機運が高まった。1869年 に運河建設のための法律が整備されフランス と工事を契約した。その後、しばらく工事が行われないまま時間が過ぎたが、1881年 にハンガリー の Stefan Tyrr らに事業が引き継がれ、1882年 4月 に本格的に工事がはじまった。途中、出資元のフランスの企業が倒産する災難も起こったが、ギリシアの会社に引き継がれて工事は継続され、1893年 に完成にこぎつけ、同年7月25日 に開通式が行われた。
コリントス地峡の岩盤はもろいため岩盤が崩落することもあり、大規模な崩落の復旧のため運河が長い間閉鎖されることもあった。また、第二次世界大戦 中の1944年 には、ドイツ軍 が運河を利用するのを阻止するため、ギリシャ側が意図的に運河を破壊した。この復旧には5年かかった。
関連項目
2019-08-11 Isthmia bridge time lapse (KPFC)
運河
ディオルコス - 古代(未だに調査中)から1世紀頃まで、初期の鉄道 が使用されていた。以後は、ネロ の運河が使用された。
脚注
参考文献
関連項目
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