同じ主題の繰り返しを避ける目的と、自分の作品の良質な複製を提供するため、彼は各国に送られた自分のほぼ全ての作品を淡彩入りのドローイングで複製し裏面には購入者の名前を記載した。ドローイングをまとめて本を出し、この本をロランは『真実の書(Liber Veritatis)』と名づけた。この貴重な作品は銅版画に複製出版され、後の風景画家の模範となる。痛風に苦しんだ彼は、1682年の11月21日もしくは23日に亡くなり、トリニタ・アル・モンテ(Trinità al Monte)の頂に葬られた。彼の莫大な遺産は、甥と養子の娘(姪の可能性あり)に残された。
ロランは弟子に親切で勤勉であり、非常に鋭い観察眼を持っていたと伝えられている。しかし、生前、彼のことを記録する者はいなかった。ヨアヒム・フォン・ザンドラルト(Joachim von Sandrart)がロランの生涯に関しては権威である(Academia Artis Pictoriae、1683年)。フィリッポ・バルディヌッチ(Filippo Baldinucci)はロランと近しかった数人から情報を得て様々な出来事をまた別の印象で語っている(Notizie dei professoni del disegno)。ジョン・コンスタブルはロランのことを「世界が今まで目にした最も完璧な風景画家」だと述べ、ロランの風景では「全てが美しく-全てが愛らしく-全てが心地よく安らかで心が温まる」と絶賛している[2]。