M3軽戦車(英語:Light Tank M3)はアメリカ合衆国で開発され、第二次世界大戦中に連合国軍が使用した軽戦車。
本車をレンドリースされたイギリス軍によって付けられた愛称は、南北戦争時に南軍騎兵隊を率いたJ・E・B・スチュアート将軍から取った「ゼネラル・スチュアート」あるいは「スチュアート」。最初に北アフリカで本車を使用したイギリス軍兵士からは「ハニー」(可愛い奴)とも呼ばれた。
第二次世界大戦前にアメリカが開発したM2軽戦車は優れた車輌であり、1941年6月にレンドリース法によりM2A4軽戦車36輌がイギリス軍に貸与(うち4輌のみがエジプトに送られただけで、他は本国配備)され、「スチュアート」の愛称が付けられた。これは以前のスペイン内戦でのソ連製・ドイツ製・イタリア製戦車の実戦による教訓から、対戦車砲に抗し得ない薄い装甲が問題とされ、M2A2までは16 mm しかなかった車体前面装甲を、25.4 mm(1インチ)に強化していた。しかしこれでも37 mm 対戦車砲に対しては不十分であり、38.1 mm(1.5インチ)に強化した新型軽戦車を開発することとなった。
前述の通り改良の重点は装甲の強化に置かれ、車体自体も後方に延長された。装甲厚の増加と車体の大型化に伴い重量はM2A4軽戦車の11.6トンから12.7トンに増えたが、誘導輪を大型化して地面と接する様に改められ、接地圧の増大を考慮した。装甲はM2軽戦車と同じくリベット接合であった。この当時はまだ溶接技術が未熟であり、仕方のない選択ではあったが、射撃試験でリベットの頭に被弾すると残りの部分が弾け飛び、車内の乗員を殺傷する恐れがあることが判明した。装甲板に傾斜はつけられず、避弾経始は考慮されていなかったが、(傾斜装甲の車体は車内容積が減るため)逆に居住性はよく、量産性に優れていた。
武装面では、M5 37 mm 戦車砲(基本的に対戦車砲のまま)を搭載したM2A4軽戦車とM3軽戦車前期生産型では駐退復座機が露出していたが、M3軽戦車後期生産型からは車載専用のM6 37 mm 戦車砲(砲身長も53.5口径に戻された)が搭載されたため、駐退復座機は防盾内に収められている。旋回ハンドルは装填手側に付いていて車長兼砲手には使いづらく、供与されたイギリス軍では反対側に移動させている。M2A4軽戦車から追加され、車体左右袖部のスポンソン前面に固定装備された2挺のM1919M4 7.62 mm 機銃は、M3軽戦車にもそのまま残されていたが、役に立たないとして後に撤去され、開口部はパッチで塞がれ、スポンソン内は物置にされた。そのため、M1919M4 7.62㎜ 機銃は、主砲同軸機銃と車体前面右側と砲塔上面の3挺である。
これらの改良を終えた1940年7月の時点で本車は正式に“M3軽戦車”として採用された。ただし、生産を担当するアメリカン・カー&ファウンドリ社がM2A4軽戦車の生産を継続していたため、生産開始は1941年3月であった。
この間にも刻々と状況が変化する戦場からは様々な情報が寄せられ、本車は生産途中にも様々な変更箇所が加えられた。
初期生産型では7角形のリベット接合式砲塔(D37812)を搭載していたが、生産第279号車からは新たに溶接式砲塔(D38976)に変更されている。更に1942年の生産第1946号車以降では、曲げ加工された均質圧延装甲と、鋳造製の砲塔前面を溶接して組み立てた馬蹄形の砲塔(D39273)が採用され、さらに同年半ばからの生産車では主砲にジャイロ・スタビライザー(砲安定装置)が追加された。M3A1と併行生産されたイギリス軍向けの最後期型では、車体も生産性のアップのため溶接式に改められていた。
エンジンはコンチネンタル社(英語版)製のW-670-9A星型7気筒空冷ガソリンエンジン(出力262 hp)であったが、1941年7月からギバースン社製の T-1020-4 星型9気筒空冷ディーゼルエンジン(出力245 hp)を搭載した型も併行生産され、これはイギリス軍ではガソリンエンジン型の「スチュアートI」に対し「スチュアートII」と呼ばれた。生産途中には航続距離アップのため車体後部に投棄可能な25ガロン燃料タンク(増槽)が2個追加された。
また、M3軽戦車にキャデラック社製の4ストロークV型8気筒液冷ガソリンエンジン 2基を搭載する改良が行われ、M3E2という形式名でテストされた後、M5軽戦車として制式化された。M5軽戦車は、イギリス軍では「スチュアートVI」と呼ばれた。
M3軽戦車は生産が中止される1942年8月までに計5,811輌が生産されている(ガソリンエンジン搭載型が4,526両、ディーゼルエンジン搭載型が1,285両)。
M3軽戦車には以下のようなバリエーションがある。
※M5軽戦車の派生型については、M5軽戦車#バリエーションを参照。
大量生産されたM3軽戦車は他の多くのアメリカ製兵器と同じく、同盟国イギリスを始めとしてソ連、フランス、オーストラリア、中国などに供与された。イギリス軍は本車を北アフリカでの戦いに投入し、その信頼性の高さから親しみを込めて「ハニー」という愛称で呼ばれた。
本車が北アフリカに到着した直後にはクルセーダー作戦が発動され、本車も1ヶ連隊(約150輌)が参加した。ここではM3軽戦車は巡航戦車代わりとして活用されたが、火力・装甲ともに不足しており多くの損害を出した。M3軽戦車は信頼性が高く、機動力に優れた軽戦車ではあったが、車体が小さくより大きな砲が搭載できなかったこと、および履帯幅が狭く接地圧が高いこと、航続距離が短いこと等の欠点があった。このため北アフリカでの戦闘任務は、新たに供給されたM4シャーマン中戦車により取って代わられ、M3軽戦車は偵察任務にまわされるようになった。
この後、チュニジアで戦ったアメリカ軍のM3A1もドイツ戦車に挑んで大損害を出し、このクラスの軽戦車がドイツ軍相手に戦車戦や歩兵支援を行うことの限界を露呈してしまった。更に1942年中期以降は、新型のM5軽戦車が配備され始め、次第に押し出される形で1943年にはアメリカ軍の第一線装備から外された。自由フランス軍や自由ポーランド軍、ビルマ方面のイギリス軍などではM3A3が使われ続けていたが、ヨーロッパのイギリス連邦軍ではM3A3の砲塔を撤去し、弾薬運搬車や砲牽引車に改造されたものも多い。またイタリア戦線のイギリス軍ではやはりM3A3の砲塔を撤去、武装を機銃のみとして軽量化し機動力を増加させた、スチュアート・レッキ偵察車に改造されている。
一方の太平洋戦争では開戦時にフィリピンに第192戦車大隊(M3軽戦車54輌)、第194戦車大隊(同53輌)が配備されていた。この中において1941年12月22日に日本軍がルソン島に上陸した際、これを迎撃に出たM3軽戦車15輌は戦車第4連隊第2中隊第1小隊所属の九五式軽戦車と戦闘を行っている。M3の正面装甲は九五式軽戦車の37 mm 砲を全て跳ね返したが、被弾炎上、履帯切断、敵小隊長車による体当たり等により5輌が行動不能となり撃退された。なおこれが日米初の戦車戦であるとされる。[2] その後空襲などにより損害が増えつつあった両戦車大隊はバターンに後退して再び戦車部隊として再編成、1942年4月8日まで歩兵部隊と共にバターン半島の死守し、第一次バターン半島攻略戦では日本軍の攻略を食い止めた。続いて第二次バターン半島攻略戦において、戦車第7連隊 臨時松岡中隊所属の一式四十七粍戦車砲を搭載した九七式中戦車改と交戦しており、松岡中隊側の戦闘詳報によれば航空支援との共同で3輌のM3軽戦車を撃破、臨時松岡中隊側には損害無しと表記されてある。結果としてはフィリピン方面では制空権、制海権を奪われ、第二線、第三線の防衛ラインが突破されたこともあり両大隊は残存車輛を全て破壊した上で降伏した。[3]
また、1942年2月にビルマ(当時)のラングーンをめぐる戦いではイギリス第7機甲旅団隷下王立第2戦車連隊所属のM3軽戦車(総数約115輌、又は150輌)が歩兵の火力支援などで活躍した。その中で華々しい活躍はラングーンの北東80 km に位置するペグー付近では十数輌のM3が戦車第2連隊軽戦車中隊所属の九五式軽戦車4輌を1,500 mの距離から撃破している。一方、同じくビルマの戦いの1942年4月27~28日の戦闘では戦車第1連隊の九七式中戦車と交戦するが、榴弾による遠距離からの集中攻撃を受けて5輌のM3軽戦車が撃破されている。なお日本軍側の損害は九七式中戦車1輌が被弾貫通により走行装置が破損、乗員死傷無しと戦闘詳報に記載されている[4][5]。
ただし第7機甲旅団の活躍をもってしても日本軍の進撃を食い止めることはできず、1942年5月には第7機甲旅団は戦車を破壊し、チドウィン川を越えてラングーンから脱出し同市は日本軍の手に落ちている。
M3はその後もガダルカナル島の戦いやニューギニアの戦いなどで活躍したが、ここでも新型のM5軽戦車やより強力なM4シャーマン中戦車が配備されるようになると次第に前線から引き上げられ、予備兵器となった。なお予備となったM3の有効活用策として火炎放射器を搭載した火炎放射戦車「サタン」が作られ、マリアナ諸島をめぐる戦いで実戦に投入された。
1942年1月から翌年3月までの間、M3およびM3A1スチュアルト(スチュアートのロシア語読み)がソ連に対するレンドリース用として供与された。これらは米英戦車が多用された北カフカス方面での戦闘で活躍している。しかしディーゼルエンジン型ではなく、他のソ連戦車より使用する燃料のオクタン価の高いガソリンエンジン型が供与され、運用に問題があったという。
1944年11月、イギリス軍の支援によりダルマチア海岸にM3A1(1輌)、M3A3(56輌)からなるユーゴスラビア第1戦車旅団が上陸し、チトーのパルチザン部隊を支援した。これらの一部は砲塔を撤去し、ドイツ軍から鹵獲した7.5 cm PaK 40や2cm Flakvierling38を搭載した対戦車自走砲や対空自走砲に改造された。
2015年末の時点ではパラグアイ陸軍が少数をM4中戦車とともに訓練用戦車として使用している[6]。
太平洋戦線で鹵獲されたM3軽戦車は日本軍戦車より機動力・防御力に優れ、37mm戦車砲M5の攻撃力も九七式中戦車改の一式47mm戦車砲と比較して、極端な差がなかったために第一線で使用され続けた。なお、当時の日本軍は戦車開発において列強から取り残されつつあり、「日本が実戦に投入した最強の戦車は鹵獲したM3軽戦車」などというジョークが存在する[7]。
1942年(昭和17年)4月のコレヒドール島要塞攻略作戦にあたり、前述の臨時松岡中隊所属の九七式中戦車改2輌、九五式軽戦車4輌に混じって1輌のM3軽戦車も参加している。このうち、実際にコレヒドール島に辿り着けたのは九七式中戦車改2輌とM3軽戦車のみだった。しかし予期せぬ戦車の投入によりアメリカ軍守備部隊は恐慌をきたし、結果的に難攻不落とされたコレヒドール要塞も同日中に陥落することとなった。なお上陸地点から台上に進出する際、海岸前面は45度以上の傾斜で九七式中戦車では容易に登坂ができず、砲爆撃や工兵隊が障害物を爆破したもののやはり登坂に失敗した。しかし、M3軽戦車で登坂を試みたところ成功したため九七式中戦車を牽引した、というM3スチュアートの優秀な機動力を象徴するエピソードが残されている。
また、インパール作戦に参加した戦車第14連隊では第1,2,3中隊がM3軽戦車を装備する軽戦車小隊を保有していたほか、作戦発動前には戦力強化のためにM3を装備する第4中隊が新たに編入された。作戦初期の1944年(昭和19年)3月には日本軍のM3軽戦車が英印軍のM3中戦車と戦闘を交え、これを撃破している。しかし無謀な作戦計画による補給の不足や、強力な中戦車を前面に立てて戦闘を行う英印軍の前に、戦車14連隊は装備を失って壊滅し、タイへ撤退している。 この他、戦車第7連隊及び戦車第4連隊が鹵獲したM3軽戦車を装備している。
この項目は、軍用車両に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:戦車、プロジェクト:軍事/Portal:軍事)。
Lokasi Pengunjung: 18.118.210.192