K部隊 (Kぶたい 英語 : Force K ) とは、イギリス海軍 が第二次世界大戦 中に編成した任務部隊 の一つ[ 注釈 1] 。最初のK部隊は、ドイツ海軍 のポケット戦艦 を始末するために、巡洋戦艦 1隻と航空母艦 1隻を基幹にして1939年10月に編成された(大西洋の戦い )。二番目と三番目のK部隊は軽巡洋艦 と駆逐艦 で編成された水雷戦隊 で、英領 マルタ島 を拠点に地中海 で行動した。地中海攻防戦 において、北アフリカ の枢軸国軍[ 注釈 2] 向けの輸送船団を攻撃し、海上補給路 を妨害した。
概要
1939年(昭和14年)9月初旬の第二次世界大戦 勃発と共に、ドイツ海軍 (Kriegsmarine ) のドイッチュラント級装甲艦 [ 注釈 3] アドミラル・グラーフ・シュペー が大西洋で活動を開始した。
9月30日、シュペーがブラジル沖合で最初の獲物(商船クレメント )を仕留めたとき、イギリス海軍はドイツ通商破壊艦が南大西洋にいることに気付き、10月3日-4日の遭難者報告から敵艦が「ポケット戦艦」であると認定した[ 注釈 4] 。海軍本部 のパウンド 軍令部長(第一海軍卿 )は対策を協議し、ポケット戦艦を捕捉して撃滅するための部隊とは、巡洋戦艦 1隻もしくは重巡洋艦 2隻が編入され、可能ならば航空母艦 1隻が加わるのが望ましいとされた。この方針にのっとって複数の任務部隊 が編成され、その一つが空母アークロイヤル と巡洋戦艦 レナウン を基幹とするK部隊 であった。
アークロイヤル(ライオネル・ウェルズ 中将、アーサー・パワー 艦長)とレナウンは本国艦隊 (The Home Fleet ) の僚艦と別れて、西アフリカ のフリータウン にむかった。さらに軽巡ネプチューン [ 注釈 5] やH級駆逐艦 [ 注釈 6] も指揮下にいれ、南大西洋でポケット戦艦狩りに従事した。戦果は11月5日に封鎖突破船 のウーヘンフェルズ (英語版 、ドイツ語版 ) を拿捕、11月23日にネプチューンがドイツ商船アドルフ・ヴェルマン を自沈に追い込んだ程度であった。
12月13日にラプラタ沖海戦 でシュペーは損傷し、ウルグアイ のモンテビデオ に逃げ込んだ。殊勲のG部隊(軽巡エイジャックス 、アキリーズ 、重巡エクセター )も少なからぬ損害を受けて増援を必要としたとき、燃料不足になっていたK部隊がウルグアイに辿り着くのは12月20日以降と見込まれた。しかしイギリスはマスコミなどを通じて「レナウンやアークロイヤルは既にモンテビオ港近海に到達し、シュペーを待ち構えている(実際はエイジャックス、アキリーズ、カンバーランド のみ)」と宣伝 し、シュペー艦長ハンス・ラングスドルフ 大佐が自沈を選ぶ理由の一つとなった。1940年(昭和15年)2月、レナウンやアークロイヤルは重巡エクセターを護衛してイギリス本土に戻った。
1940年(昭和15年)10月下旬にドイツ本土を出撃したポケット戦艦(重巡)アドミラル・シェーア は、クランケ 艦長の指揮下で順調に行動していた[ 注釈 7] 。
イギリス海軍は敵通商破壊艦が大西洋にいることに気付き、シーレーン の保護と、ポケット戦艦対策を講じる。この方針により新鋭空母 フォーミダブル 、重巡ノーフォーク 、重巡ベリック でK部隊を再編した[ 注釈 8] 。
K部隊はアゾレス諸島 南西の海域を捜索するよう命令されたが、シェーアもドイツ仮装巡洋艦トール も捕捉できなかった[ 注釈 9] 。
2代目のK部隊は、1941年(昭和16年)10月21日に創設された。これは1941年春季に行われたドイツ国防軍 の北アフリカ戦線 での攻勢、ゾネンブルーメ作戦 の影響を受けてのことである[ 注釈 10] 。同年5月のクレタ島攻防戦 で連合国軍 は大打撃を受けており、地中海艦隊 は弱体化していた。マルタも枢軸空軍の絶え間ない空襲に晒され、同地を拠点とする潜水艦 や航空機 の活動も制約された。このため連合国軍の水上兵力は、北アフリカ戦線へ補給物資を送る枢軸国 軍の輸送船団に対して、効果的な妨害が出来なくなっていた。この状況下、イギリス首相ウィンストン・チャーチル はジブラルタル のH部隊 を増強すると共に、10月にマルタを拠点とするK部隊を再編することとした。創設当初のK部隊は、軽巡洋艦 2隻(オーロラ 、ペネロピ )、L級駆逐艦 2隻(ランス 、ライヴリー )から成っていた。
1941年11月上旬、イタリア王立海軍 (Regia Marina ) が護衛する枢軸軍輸送船団(デュースブルク船団 )を、K部隊が撃滅して大勝利をおさめた。そしてイタリア軍 に「トリポリ は事実上封鎖状態にある」と考えさせるまでになった。まもなくマルタ に到着したB部隊 (軽巡洋艦エイジャックス 、ネプチューン 、K級駆逐艦 2隻[ 注釈 11] が合流したことで、K部隊はさらに増強された。これは非常に効果的で、枢軸国は1941年11月にその補給量の60%にのぼる損害を受けていた。しかし第1次シルテ湾海戦 を戦ったあとの1941年12月19日、K部隊とB部隊の艦艇は、イタリア軍の船団を追跡するうちに機雷原に入り込んでしまった。機雷の爆発によって軽巡ネプチューンが沈没、軽巡オーロラ とペネロピ が損傷した。また駆逐艦カンダハー が救援作業中に触雷した[ 33] 。損傷したカンダハーは、翌日になり駆逐艦駆逐艦ジャガー によって処分された。
この後、マルタ島への枢軸国軍の空襲が強化され、マルタへドイツ軍が空挺作戦 を実施する兆候もあり[ 注釈 12] 、水上艦艇はマルタ島から撤退することとなった。ペネロピのみはマルタ にとどまったが、これはペネロピが撤退するには損傷を受け過ぎていたからであった。同艦は港内に停泊中繰り返し何度も攻撃を受けたため、「胡椒 瓶 (HMS Pepperpot ) 」というあだ名を付けられた。ペネロピも最終的にはマルタ島を去り、この時が、K部隊の活動の終わりとなった。
1942年(昭和17年)中旬以降、連合国軍はペデスタル作戦 とストーンエイジ作戦 を実施した。マルタ島に有力な補給船団を送り込み、同時に北アフリカでの反攻作戦(トーチ作戦 )にも成功し、北アフリカと地中海戦域の勝利を決定的なものとした。この過程でK部隊は再建された。ストーンエイジ作戦に参加した艦艇からD級軽巡 のダイドー とユーライアラス および第14駆逐戦隊 (14th Destroyer Flotilla ) が分派され、マルタを基地として作戦するようになったのである[ 37] 。
脚注
注釈
出典
参考文献
ゴードン・ウィリアムソン〔著〕、イアン・パルマ―〔カラー・イラスト〕『世界の軍艦イラストレイテッド2 German Pocket Battleships 1939-45 ドイツ海軍のポケット戦艦 1939 ― 1945』柄澤英一郎〔訳〕、株式会社大日本絵画〈オスプレイ・ミリタリー・シリーズ Osprey New Vanguard 〉、2006年1月。ISBN 4-499-22899-9 。
ゴードン・ウィリアムソン〔著〕、イアン・パルマ―〔カラー・イラスト〕『世界の軍艦イラストレイテッド4 German Heavy Cruisers 1939-45 ドイツ海軍の重巡洋艦 1939 ― 1945』手島尚〔訳〕、株式会社大日本絵画〈オスプレイ・ミリタリー・シリーズ Osprey New Vanguard 〉、2006年5月。ISBN 4-499-22909-X 。
テオドール・クランケ、H・J・ブレネケ「第二部 南大西洋にて」『ポケット戦艦 ― アドミラル・シェアの活躍 ― 』伊藤哲(第11版)、早川書房〈ハヤカワ文庫ノンフィクション〉、1980年12月。ISBN 4-15-050066-5 。
酒井三千生『ラプラタ沖海戦 グラフ・シュペー号の最期 』株式会社出版協同社〈ハヤカワ文庫〉、1985年1月。ISBN 4-87970-040-1 。
ダドリー・ポープ『ラプラタ沖海戦 グラフ・シュペー号の最期 』内藤一郎(第5版)、早川書房〈ハヤカワ文庫ノンフィクション〉、1978年8月。ISBN 4-15-050031-2 。
三野正洋『地中海の戦い』朝日ソノラマ〈文庫版新戦史シリーズ〉、1993年6月。ISBN 4-257-17254-1 。
Eric Groves : Sea Battles in Close-Up Vol II ( 1993) . ISBN 0 7110 2118 X
Stephen Roskill : The War at Sea 1939-1945 Vol I (1954) ISBN (none)
関連項目