ドイツ・アフリカ軍団(ドイツ・アフリカぐんだん、独: Deutsches Afrikakorps〈ドイチェス・アフリカコーア〉、略称: DAK)は、第二次世界大戦中に地中海沿岸のイタリア領リビアに派遣された、ドイツ国防軍の部隊。なお、アフリカ派遣軍部隊のすべてがドイツ・アフリカ軍団に属していた訳ではない。エルヴィン・ロンメルの指揮により、大きな戦果を挙げた。
ドイツ・アフリカ軍団の戦闘の詳細は、北アフリカ戦線を参照。
1940年9月イタリア領リビアに駐留するイタリア軍は、ローマ帝国の再来を夢見てイギリス領エジプトへの侵攻を開始した。しかし、攻勢は12月からイギリス軍の反撃により頓挫し、1941年1月イギリス軍は逆にリビアのキレナイカ地方を占領し、2月6日にはベンガジを占領する。このイタリア軍の敗北を受けて、ドイツ国防軍最高司令部は地中海・アフリカ方面へ兵力を展開することを決定し、エルヴィン・ロンメルを指揮官として2個師団(第5軽師団と第15装甲師団)をドイツ・アフリカ軍団と名づけ、イタリア軍救援のために派遣した。なお、この時点ではロンメルにはイタリア軍を指揮する権限はなかった。
2個師団しかなかったアフリカ軍団から始まったアフリカ戦線にドイツ国防軍部隊の投入が増加するに従い、指揮系統を明確にする必要性が認められ、イタリア軍を含む枢軸軍としての司令部が設けられるようになった。
1941年2月12日ロンメルは初めてイタリア領リビアに足を踏み入れるが、第5軽師団をもってイタリア領リビアに侵入したイギリス軍をベンガジ、メキリ、ガザラに打ち破り、4月29日にはトブルクを包囲し、更にイギリス領エジプトの国境の要衝のハルファヤ峠に兵を進める。
ロンメルがイタリア軍部隊の一部として当初思いがけない作戦の成功を収めた後、ドイツ国防軍最高司令部はアフリカにより大きな作戦司令部を設ける必要性を感じ、アフリカ装甲集団を設けた。
1941年8月15日にロンメルは同装甲集団の司令官に任命され、2個のドイツ軍師団から成るアフリカ軍団の指揮権をルートヴィッヒ・クリューヴェルに移譲した。こうしてロンメルはアフリカ軍団のみならず、その他のドイツ軍部隊に加えてイタリア軍の2個軍団を指揮する事とになる。
1942年1月30日アフリカ装甲集団はアフリカ装甲軍に改名される[1]。
1942年10月アフリカ装甲軍は、第二次エル・アラメインの戦いに敗北しドイツ・イタリア装甲軍と改名される。
1943年2月ドイツ・イタリア装甲軍はアフリカ軍集団と改名されてアフリカ戦線の最終段階であるチュニジアの防衛にあたる。
アフリカ軍団を含むアフリカ軍集団は、イタリア第1軍(en)に、3月には第5装甲軍司令官ハンス=ユルゲン・フォン・アルニムに指揮権が移譲され、5月13日に連合軍に降伏、アフリカにおけるドイツの戦いは終わる。
これら司令部はその存在を通じてよく知られたアフリカ軍団、他のドイツ軍部隊やイタリア軍部隊を指揮した[2]。 以下の一覧はlexikon-der-wehrmacht.de から抜粋した。日付は一部修正した。(外部リンクも参照)
1943年2月:
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