クルブ・アトレティコ・ロサリオ・セントラル (スペイン語 : Club Atlético Rosario Central )は、アルゼンチン ・サンタフェ州 ・ロサリオ をホームタウンとするサッカー クラブである。リーガ・プロフェシオナル 所属。
概要
首都ブエノスアイレス とブエノスアイレス州 (大ブエノスアイレス都市圏 )以外に本拠地を置くクラブとしては、アルゼンチンでもっとも成功を収めているクラブのひとつである。プリメーラ・ディビシオン (1部)で4度優勝しており、直近の優勝は1986-87シーズンである。さらに、1995年にはコパCONMEBOL (コパ・スダメリカーナ の前身となった大会)でも優勝した。
アルゼンチン最古のサッカークラブのひとつであり、公式には1889年に設立された。クラブ名称はイギリス人が所有するセントラル・アルゼンチン鉄道会社に因んでいる。同じロサリオに本拠地を置くニューウェルズ・オールドボーイズ との試合はクラシコ・ロサリーノ (ロサリオ・ダービー)と呼ばれ、非常に白熱した試合になる。ホームスタジアムはエスタディオ・ヒガンテ・デ・アロシート (エスタディオ・Dr. リサンドロ・デ・ラ・トーレ)であり、ロサリオ市で最も大きなスタジアムである。
歴史
黎明期
格子模様のジャージを着用していた1903年のチーム
1889年12月24日、セントラル・アルゼンチン鉄道のイギリス人労働者達によって、セントラル・アージェンティン・レールウェイ・アスレティック・クラブ (Central Argentine Railway Athletic Club ) として設立された。1904年、セントラル・アルゼンチン鉄道とブエノスアイレス鉄道が統合され、クラブの名称が現在のクルブ・アトレティコ・ロサリオ・セントラル (Club Atlético Rosario Central) に変更された[ 1] 。当初のユニフォームカラーは赤と白だったが、その後青と白の格子模様を経て、現在の青と黄色の縦縞に落ち着いた。
アマチュアリーグ時代(1905年-1930年)
1905年、ロサリオ市のクラブらによってロサリオサッカーリーグが設立され、ロサリオ市のサンティアゴ・ピナスコ市長がトロフィーを寄贈したため、初回大会はコパ・サンティアゴ・ピナスコと名付けられた。5月21日に行われたCAデル・ロサリオ との初戦には3-1で勝利し、6月に行われたノッティンガム・フォレストFC (イングランド)との親善試合には0-5で敗れた。1908年には初のリーグ優勝を果たし、1913年にはリーグから脱退したが、1914年に復帰すると20試合を戦って19勝1分(99得点10失点)の圧倒的な成績を残し、51得点を挙げたハリー・ハジェス が得点王に輝いた[ 2] 。1915年と1916年にも優勝して3連覇を達成。1919年の優勝が最後のタイトルとなり、1920年に再びリーグを脱退した。脱退するやいなやアマチュア協会に加わったが、結局アマチュア協会に意見を異にしたセントラルなどのクラブは、1921年に再びロサリオサッカーリーグに復帰した。1923年、1927年、1928年、1930年にリーグ優勝し、ロサリオサッカーリーグの最多優勝クラブとなった。
1915年には、ブエノスアイレス とロサリオの各リーグ優勝クラブによって争われるコパ・イバルグレン に出場し、ブエノスアイレス王者のラシン・クラブ を3-1で破って優勝した[ 3] 。同年のコパ・デ・オノール・ムニシパリダ・デ・ブエノスアイレス ではCAインデペンディエンテ を1-0で破って優勝し、コパ・デ・コンペテンシア・ジョッキー・クラブ では再びラシンを破って優勝した。1920年のコパ・デ・コンペテンシアではCAアルマグロ を破って優勝した。
プロリーグ時代(1931年-現在)
2度目のプリメーラ昇格を果たした1951年のチーム
1931年、アルゼンチンではプロリーグ化が行われ、ロサリオでは初のプロリーグを組織するためにロサリオサッカー協会 (スペイン語版 ) が設立された。サンタフェ州知事のルシアーノ・モリーナスに因み、コパ・ナカシオ・ビラはトルネオ・ゴベルナドール・ルシアーノ・モリーナスという名称に変更された。セントラルは1937年と1938年にリーグ優勝した。
1939年、セントラルとライバルのニューウェルズ・オールドボーイズ はアルゼンチンサッカー協会 に対してリーグ加盟の承認を求め、両クラブともプリメーラ・ディビシオン (1部)に受け入れられた。1941年のセントラルは20試合を戦って6勝しか挙げられず、プリメーラB (当時2部相当)に降格したが、プリメーラBで過ごしたのはわずか1シーズンであり、1942年には25勝4敗の成績でプリメーラ・ディビシオン昇格を果たした。1950年には再びプリメーラB降格となったが、前回同様に降格から1年で昇格を果たした。
初のリーグ優勝
アンヘル・ラブルナ 監督が率いたナシオナル1971ではプレーオフに出場し、準決勝ではアルド・ポイ がダイビングヘッドで決勝点を決めてニューウェルズを破った。この得点は今日でもサポーターに記憶されており、12月19日にはポイが参加する祝賀行事が行われることもある[ 4] 。プレーオフ決勝ではCAサン・ロレンソ・デ・アルマグロ を破り、初のプリメーラ・ディビシオン優勝を果たした。2年後のナシオナル1973では、カルロス・グリグオル 監督が指揮して2度目のリーグ優勝を果たした。この時のチームの主力選手にはポイ、カルロス・アイマール 、ホルヘ・ソラーリ などがおり、カルロス・ビアスット、ホルヘ・ゴンサーレス、アウレリオ・パスクティーニ、ダニエル・キリェール、マリオ・キリェール、アイマール、エドゥアルド・ソラーリ、ポイ、ラモン・ボベーダ、ロベルト・カブラル、ダニエル・アリコがレギュラーを務めた。1974年にはインスティトゥートACコルドバ からストライカーのマリオ・ケンペス を獲得し、ケンペスはバレンシアCF (スペイン)移籍後の1978 FIFAワールドカップ で得点王に輝く活躍を見せた。
1980年代
1970年代半ば以降は7年間無冠が続いたが、アンヘル・トゥリオ・ソフ 監督が指揮したナシオナル1980で久々の優勝を飾った。この時のセントラルはピッチ上で優雅なプレーを見せ、「ラ・シンフォニカ」(オーケストラのシンフォニー)と呼ばれた。ラシン・デ・コルドバ と対戦した決勝では、ファーストレグで5-0と快勝し、セカンドレグに0-2と敗れたものの、得失点差でリーグ優勝を決めた。ダニエル・カルネバーリ 、フアン・カルロス・ギエルメッティ、エドガルド・バウサ 、オスカル・クライジャチッチ、ホルヘ・ガルシア、ホセ・ガイタン、ダニエル・スペランディオ、エドゥアルド・バカス、フェリクス・オルテ、ビクトル・マルチェッティ、ダニエル・テグリアがレギュラーだった。その後何年かは低調なシーズンが続き、1984年にプリメーラB降格となったが、ペドロ・マルチェッタ監督が采配を振るったチームはわずか1年でプリメーラ・ディビシオン復帰を果たした。ソフ監督が再び指揮を取った1986-87シーズンには4度目のリーグ優勝を果たした。この時のチームのレギュラーはアレハンドロ・ラナーリ、エルナン・ディアス 、ホルヘ・バルビス、バウサ、ペデルネーラ、オマール・パルマ 、アデルキ・コルナグリア、ロベルト・ガスペリーニ 、オスバルド・エスクデロ 、フェルナンド・ランシデイ、ウーゴ・ガジョーニだった。
1990年代以降
1990年代最初の数年間は国内リーグで低調な成績に終わったが、1995年のコパCONMEBOL で優勝を果たした。今日においても、この年のコパCONMEBOLはサンタフェ州のクラブが獲得した唯一の国際タイトルである。アトレチコ・ミネイロ (ブラジル)戦ではアウェーでのファーストレグに0-4で敗れたが、ホームでのセカンドレグに4-0で勝利し、PK戦に4-3で勝利したロサリオが勝ち上がった。1997年11月23日のロサリオ・ダービーには4-0で勝利したが、ニューウェルズはその試合の後半途中に試合を放棄したため、毎年11月23日は"Dia del abandono"(逃亡者の記念日)とされ、セントラルのサポーターがお祝いをしている。2000年代後半には成績が低迷し、2009-10シーズン後に行われた昇降格プレーオフではCAオール・ボーイズ と対戦したが、2試合合計1-4で敗れてプリメーラB・ナシオナル (2部)に降格した。この際、オラシオ・ウサンディサーガ会長の経営手腕が疑問視され、サポーターから殺害予告を受けたため、ウンディサーガはスペインに逃避した。その後、会長選挙が行われてノルベルト・エスペシアーレが新会長に就任した。2012-13シーズン開幕時点でコパ・リベルタドーレス には10度出場しており、ボカ・ジュニアーズ 、CAリーベル・プレート 、CAインデペンディエンテ 、CAサン・ロレンソ・デ・アルマグロ に次いでアルゼンチン5位タイ(エストゥディアンテス・デ・ラ・プラタ やCAベレス・サルスフィエルド と同数)の出場回数を誇る。
ニックネーム
最も一般的に使用される愛称はLos Canallas(ロス・カナージャス、ならず者)である。1920年代、ニューウェルズとともに難病患者を迎えてのチャリティーマッチを企画したが、あらぬ誤解から試合をキャンセルしたため、ニューウェルズのファンにこう呼ばれたのが始まりである。本来ならば蔑称として使用される単語であるが、クラブもマスコミも堂々と使用している[ 5] 。この出来事以来、ニューウェルズはLeprosos(レプロソス、ハンセン病患者)というニックネームで呼ばれている。1928年、セントラルのサポーターがライバルのCAベルグラーノ のスタジアム近くで布地を燃やし、その際に「ならず者! ならず者!」と呼ばれたのが始まりであるとする説もある[ 6] 。2007年1月にアメリカのニュージャージー州 で行われた記者会見で、ロサリオ出身のロベルト・フォンタナローサ は愛称のスペル変更を行なった。彼によれば、ロサリオ出身の人々はスペイン語の「Canall as」という単語を使用しないということで、新しいスペルは「Canay as」(カナ読みはいずれもカナージャス)となった。
下部組織から優れた選手を多く輩出していることと、アマチュアリーグ時代の優勝回数が多いことがラシン・クラブ に似ていることなどから、ラシン・クラブと同様のLa Academia(ラ・アカデミア、学院)という愛称も持つ。
サポーター
巨大な横断幕を掲げるセントラルのサポーター
2008年1月にはイギリスの雑誌「UK Football」が「世界のスタジアムの熱狂度」についてのランキングを発表し、セントラルは14位でアルゼンチンのクラブ中最高位となった。CAリーベル・プレート が20位で、ボカ・ジュニアーズ が23位で、ラシン・クラブ が48位でセントラルに続いた[ 7] 。アルゼンチンの地方都市では、全国的な人気クラブであるボカ・ジュニアーズやリーベル・プレートを応援するサポーターが人口の過半数を占めるとされるが、ロサリオ市では状況が異なる。1995年にナシオン紙が行った調査によると、ロサリオ市においてセントラルのサポーターは45%を占め、ニューウェルズのサポーターが30%で続いている。ボカ・ジュニアーズは7%、リーベル・プレートは6%にとどまっている。
CAチャカリタ・ジュニアーズ とは非常に良好な関係を築いており、チャカリータとの試合の際には、サポーター同士がユニフォームを交換したり、スタジアム外でバーベキューをして親睦を深めている。アルゼンチンのCAヒムナシア・イ・エスグリマ・デ・フフイ 、CAサン・マルティン・デ・トゥクマン とも良好な関係である。[ 8] [ 9]
セントラルサポーターの著名人には、アルベルト・オルメード (コメディアン/俳優)、リタ・ラ・サルバヘ(芸術家)、リベルタ・ラマルケ (歌手/女優)などがいる。オスバルド・バジェール 、フォンタナローサなどの作家、フィト・パエス 、フアン・カルロス・バグリエット 、ホアキン・サビーナ などのミュージシャンもセントラルのサポーターである。
セントラルは労働者階級のチームというクラブカラーの為、ロサリオ出身のチェ・ゲバラ (革命家)もセントラルのサポーターだった。[ 10] [ 11]
またその影響で、キューバのフィデル・カストロ 議長の贔屓のチームであると言われている。
ゲバラはクラブを代表するアイコンのひとりであるため、クラブやサポーターの愛称としてLos Guerreros(ロス・ゲレーロス、戦士/ゲリラ)が用いられる。ハビエル・マスチェラーノ とエセキエル・ラベッシ はセントラルの入団テストに落ちた過去があり、セントラルでのプレー経験はないが、両選手ともサポーターとして知られている。ラベッシは背中にセントラルのエンブレムのタトゥーを刻んでいる。
またPSGに所属するアンヘル・ディ・マリア も小さいころから、当クラブでプレーをしており、足にタトゥーを入れる等、熱狂的なサポーターとして知られ、復帰を夢見てる。[ 12]
スタジアム
ロサリオ市北東部のリサンドロ・デ・ラ・トーレ地区(アロシート地区として知られる)、アベシャネーダ大通りとヘノヴァ通りの交差部にあるエスタディオ・ヒガンテ・デ・アロシート をホームスタジアムとしている。公式には41,654人を収容する。1978 FIFAワールドカップ では、アルゼンチン代表 の2次リーグ3試合すべてがヒガンテ・デ・アロシートで行われた。かつてセントラルのアイドル的存在だったマリオ・ケンペス は大声援を受け、得点王に輝く活躍でアルゼンチン代表の優勝に貢献した。
大衆文化
ロサリオ・セントラルは多くの映画、書籍、楽曲、演劇に登場し、いくつかの散文にも登場する。ロベルト・フォンタナローサ の「19 de diciembre de 1971」(1971年12月19日)という物語は、ニューウェルズ・オールドボーイズ 戦のためにブエノスアイレスを訪れたセントラルサポーターを題材にしている。
また毎年この日が訪れてるとロサリオでは、このときにダイビングヘッドのゴールを決めたアルド・ポイ のゴールと同じくダイビング・ヘッドにてゴールを決めるということを行っている。
ユニフォーム
サプライヤーとスポンサー
2011年8月以来、アルゼンチンの都市銀行であるインヘコンセールが胸スポンサーとなっている。2012年7月、ブラジルのスポーツブランドであるオリンピクス とユニフォーム提供の契約を交わした。
スポンサー
期間
胸スポンサー
1985-1986
サネージャ (バイク)
1986-0000
Aurora Grundig
1987-1992
サネージャ (バイク)
1992-1998
General Paz Seguros
1998-2001
カブレオガール (メディア)
2001-2002
-
2002-2005
トランスアトランティカ (旅行)
2005-2009
パラディーニ (食品)
2009-2011
リベラ市 (マンション)
2011-2014
インヘコンセール (銀行)
2014-0000
バンコ・ムニシパリダッ (銀行)
ユニフォームの変遷
現所属メンバー
2022年9月15日現在 [ 13]
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルール に基づく。
タイトル
国内タイトル
全国タイトル
地域タイトル
ロサリオ選手権 : 12回
1908, 1914, 1915, 1916, 1917, 1919, 1923, 1927, 1928, 1930, 1937, 1938
国際タイトル
歴代会長
歴代監督
単一シーズン制時代 (-1966)
メトロポリターノとナシオナル時代 (1967-1985)
ヨーロッパシーズン制時代 (1985-)
歴代所属選手
GK
DF
MF
FW
脚注
^ El Nacimiento de una Pasión , Alejandro Fabbri - Buenos Aires, 2007
^ Liga de Rosario 1914 RSSSF
^ Historia del Fútbol Rosarino
^ "La palomita de Poy, a 40 años de una jugada legendaria" , Télam, 2011-12-18
^ footballista、ソルメディア、2009年7月29日・8月5日合併号、39頁
^ De Rosario y de Central , Jorge Brisaboa, 1996 - ISBN 950-808-100-7
^ Hinchadas vibrantes Ole、2008年1月5日
^ Amistades del fútbol: Chacarita Juniors - Rosario Central
^ gimnasia de jujuy y rosario central
^ http://www.rosariocentral.com/institucional/13509/
^ El “Che Guevara es, sin dudas, uno de los hinchas de Central
^ http://www.tycsports.com/futbol/di-maria-expreso-su-fanatismo-por-central-en-un-original-tatuaje
^ “Plantel Profesional - Rosario Central ”. June 30, 2016時点のオリジナル よりアーカイブ。2023年4月4日 閲覧。
外部リンク