カルビン・クーリッジ 共和党
ハーバート・フーヴァー 共和党
1928年アメリカ合衆国大統領選挙(1928ねんアメリカがっしゅうこくだいとうりょうせんきょ、英語: United States presidential election, 1928)は、1928年11月6日に行われたアメリカ合衆国大統領選挙(第36回)。共和党候補のハーバート・フーヴァーと民主党候補のアル・スミスの戦いとなった。
共和党は1920年代の好況を味方に付けていたのに対し、カトリック教徒であるスミスは、反カトリックからの偏見、スミスの反禁酒法の姿勢、および関わっていたタマニー・ホールの汚職の名残という政治的な障害があった。フーヴァーが地滑り的勝利を掴んだ。
共和党の指名候補者
現職のクーリッジ大統領が出馬しないことを選択し、候補指名争いは本命のいないものになった。有力候補者は商務長官のハーバート・フーヴァー、元イリノイ州知事のフランク・ローデン、および上院院内総務のチャールズ・カーティスだった。クーリッジを推す動きもあったが、意味ある推進力を得るところまでは行かなかった。
幾つかの予備選ではフーヴァーが思っていたほど伸びず、行き詰まりになった場合に大統領か副大統領のチャールズ・ドーズが受けるのではないかという思惑もあったが、ローデンが党大会の始まらんとする頃に撤退を表明し、フーヴァーが指名される道を作った。
共和党全国大会は6月12日から15日まで、ミズーリ州カンザスシティで開催され、候補者選びの結果は次のようになった。
フーヴァーはその副大統領候補者選びに干渉することを好まなかったので、党の指導者達は初めにドーズに2期目を渡そうと考えた者もいたが、この情報が漏れると、クーリッジは、彼が憎んでいるドーズに2期目を指名することは彼への侮辱として受け止める、という怒った電報を送った。そこでカーティス上院議員にお鉢が回り、カーティスも受け入れたので、全会一致で副大統領候補に指名された。
フーヴァー長官は党大会が終わってから1週間後の受諾演説で、「我々のアメリカは今日、この国の歴史でかって無かったほどの貧窮に対する最終的な勝利を得ようとしている。...間もなく神の助けによって貧窮がこの世で禁じられる日を見ることだろう。」と言った[2]。
民主党の指名候補者
ティーポット・ドーム事件(公有地の油田利権を巡る癒着騒動)の記憶が薄れ、当時の経済的繁栄の中で、この年の大統領候補者選びは大騒ぎする価値がなかったので、ウィリアム・マカドゥーのような主要民主党指導者の大半は模様長めに安住していた。そうではなかったのが、過去2回指名候補になっていたニューヨーク州知事アル・スミスだった。党のボス達はあらゆる目論見や目的にも、また空虚な栄誉にもスミスがやろうということに賭けるほうが安全だと考えた。
1928年の民主党全国大会は6月26日から28日にテキサス州ヒューストンで開催され、スミスが第1回目の投票で大統領候補に指名された。
指導層は、スミスとは多くの点で政治的対極にあるアーカンソー州のジョセフ・T・ロビンソン上院議員を副大統領候補に指名するよう代議員達に求め、ロビンソンが副大統領候補に指名された。
スミスは主要政党から大統領候補に指名された者として最初のローマ・カトリック教徒であり、その信教が選挙運動で問題とされた。多くのプロテスタントは、スミスが国の政策を決める時にローマの教会指導者からの注文を受け入れるのではないかと恐れた。
禁酒党の党大会は7月10日から12日にシカゴで開催された。スミスは公然と禁酒法に対する反対を言っていたわけではなかったが、アルコールに対する戦いでは軟弱と見るものが多かった。禁酒党の党員の中には、党の候補者がとても選挙には勝てないと考え、またもしその候補者が得た票によってスミスが勝つようなことは望まなかったので、フーヴァー支持を表明することを欲する者もいた。それでも、候補者選びの投票の結果、ウィリアム・F・バーニーが68票対45票(フーヴァー)で大統領候補に指名された。カリフォルニア州の候補者名簿にはフーヴァーが禁酒党候補者として載っていた。
指導者だったユージン・V・デブスは1926年に死去し、新たな党の顔を必要とした社会党は、長老派の牧師で産業民主連盟の共同議長だったノーマン・トーマスを候補者として指名した。その後5度の大統領選で、トーマスは社会党の候補として指名され続けている。
主要候補の2人共に実際に活動的に国中を選挙運動で回り、ラジオの宣伝や音声付ニュース映画という新しい道具も導入した。1928年秋の選挙運動は近代的大統領選挙の走りとも考えられている。
投票は1928年11月6日に行われ、翌日、11月7日の非公式集計において大勢が決した[3]。
共和党候補者ハーバート・フーヴァーは、クーリッジの任期中にあった経済繁栄を継続するという公約で、選挙で大勝した。スミスは伝統的に民主党が強い南部諸州とニューイングランドの2州を制しただけだった。フーヴァーはスミスの出身州であるニューヨーク州でも僅差で勝利した。
スミスがカトリック教徒であること、反禁酒法の立場にあること、ならびにタマニー・ホールと繋がりがあることは、南部でも傷となり、レコンストラクション以来初めて幾つかの南部州が共和党に流れた。しかし、少なからぬアフリカ系アメリカ人の人口がある南部州で(当時アフリカ系アメリカ人の大半は投票できなかった)、フーヴァーを人種差別撤廃あるいは少なくとも人種差別を続けることには関わらない存在という認識があって、これらが有利に働いた。選挙期間中、ミシシッピ州選出の上院議員セオドア・ビルボは、フーヴァーが共和党全国委員会の黒人会員と会って、ダンスを踊ったと主張した[4]。スミスの宗教問題はニューイングランドの移民には受け入れられ、このことで伝統的に共和党が強いマサチューセッツ州とロードアイランド州で僅差ながら勝利した理由となった。
スミスはこの選挙でもう一つ特徴あることを残した。民主党が全国の人口の多い都市12を含め大都市の大半を初めて制したことであり、大きな流れの変化を警告するものとなった。
[5]
青字は民主党、赤字は共和党が勝利したことを示す。数字は得票率の差。
得票率差1%未満 (選挙人数5):
得票率差5%未満 (選挙人数95):
得票率差5%以上10%未満 (選挙人数60):
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