ハーバート・フーヴァー 共和党
フランクリン・ルーズベルト 民主党
1932年アメリカ合衆国大統領選挙(1932ねんアメリカがっしゅうこくだいとうりょうせんきょ、英語: United States presidential election, 1932)は、1932年11月8日に行われたアメリカ合衆国大統領選挙(第37回)。1929年の株式市場の崩壊と世界恐慌の影響が国中を厳しく覆った中で行われた。
現職大統領で共和党のハーバート・フーヴァーの人気は、有権者達がフーヴァーでは経済の崩壊を回復できず、禁酒法もうまく扱えないと感じるにつれて下降していった。民主党のフランクリン・ルーズベルトは、フーヴァーがこれらの問題に処せなかったことが自分の選挙運動のための綱領に利用できると考え、ニューディール政策と呼ばれる改革を公約した。ルーズベルトがどのようにして事態を変えられるかについてははっきりしていなかったが、地滑り的勝利を得た。この「時代を画した選挙」は第四政党制すなわち進歩主義の時代の崩壊を告げた。有権者達は間もなくルーズベルトのニューディール連合に支配される第五政党制に組み込まれることになった。
民主党の指名候補者
1932年の春と夏を通じて、ニューヨーク州知事フランクリン・ルーズベルトは民主党の指名を得る有力候補と見られていた。しかし、1928年の大統領候補者だったアル・スミスがマサチューセッツ州予備選でルーズベルトを破るなど、予期せぬ挫折を味わった。それでもシカゴで民主党全国大会が始まったとき、ルーズベルトは他の候補者全部を合わせたよりも多くの代議員票を集めるものと思われていた。しかし、3分の2ルールのために、多くの対抗馬はルーズベルトが指名を得られないことを期待し、そうなれば後の投票で代議員達が自分達に目を転ずるものと考えた。
第1回目の投票で、ルーズペルトは対抗馬達を大きく凌ぎ、対抗馬の中ではスミスが最強だった。しかし、ルーズベルトは指名を得るために必要な3分の2を得られなかった。次の2回の投票でルーズベルトの獲得票はほんの少し増加しただけであり、そのマネジャーであるルイス・ハウとジェイムズ・ファーリーは、もし次の数回で指名を得られなければ、その強さは退潮して他の候補に動いていくのではないかと心配になった。第4回目の投票が始まる前にファーリーとハウは新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストと取引し、ルーズベルトが下院議長でやはり大統領指名候補でもあるジョン・N・ガーナーを副大統領候補にするつもりだと流した。ガーナーとそのマネジャーであるテキサス州選出の下院議員サム・レイバーンはこの取引に応じ、4回目の投票でガーナーが指名候補から降りてルーズベルトを支持した。さらに元財務長官のウィリアム・マカドゥーは、8年前に自身の大統領への野望がアル・スミスによって挫折させられたこともあり、喜んでカリフォルニア州の票をガーナーからルーズベルトに変え、このことで4回目の投票の終わりにはルーズベルトの指名に向けて大勢が動くこととなった。
民主党の綱領には禁酒法の撤廃が含まれた(アルコールを許可するか禁止するかは個々の州の決定に委ねられる)。
共和党の指名候補者
1932年が始まったときに、共和党は恐慌の最悪の時は過ぎたと期待した。いずれにしてもハーバート・フーヴァー大統領は党を支配していた。知名度の低い元上院議員ジョセフ・フランスがフーヴァーに対抗して予備選に出馬したが、ほとんど相手にならなかった。フーヴァーの予備選での勝利は2つの事実で強化された。1つはフーヴァーがフランスの出身州であるメリーランド州予備選でも勝利したこと、2つめは予備選で共和党全国大会の代議員がほとんど選ばれなかったことだった。
共和党全国大会におけるフーヴァーのマネジャーはしっかりとした管理を行い、国の行方に関する心配表明を許さなかった。フーヴァーは第1回目の投票で代議員の98%の票を獲得して大統領候補に指名された。
共和党の農政族と極端な硬貨支持派(クーリッジの指名を望んだ)は、議事進行係を妨害し、副大統領チャールズ・カーティスの再指名に反対する投票を行った。カーティスは代議員票の丁度55%を得て指名された。
ルーズベルトはそのハイドパークにある地所から民主党集会まで危険な飛行機旅行をした後に、個人的に指名を受けた。その歴史的な演説の中で、「私は貴方たちに誓う。私は自分にも誓う。アメリカの人民のために新しい方法(ニューディール政策)を行うことを」と述べて、ニューディール政策でアメリカの大恐慌と自ら戦うと宣言した。ルーズベルトのシカゴ行きは、選挙における変化を与える候補者として登場させるために仕組んだ幾つかの成功を収め、前例を作る動きの始まりだった。ルーズベルトが国中を回ると、大群衆が出迎えた。その選挙歌は幸せな日々がまた現れる(英語版)であり、アメリカの政治史の中でも最も人気のあるものの一つとなった。
対照的にフーヴァー大統領は大恐慌のために大きな非難を浴びた。フーヴァーは2年間以上にわたって最悪の時は去ったと宣言してきたが、経済は下降線を辿るだけだった。フーヴァーの大衆に向けた選挙運動は悲惨なものとなり、都市の道路を通行中にしばしば物(腐った卵や野菜)を投げつけられた。その演説ではルーズベルトを、税金を上げ過剰な福祉と生活保護の計画に払う国債を増やすことで不況を悪化させるだけの危険な急進派として攻撃した。しかし、失業率は33%にも達し、その批判は大衆の注意を引くことにはならなかった。
投票は1932年11月8日に行われた。メイン州は9月に別の州単位の選挙を行った。
1932年は再構成の選挙だった。ルーズベルトと民主党はフーヴァーと共和党に対して圧倒的な勝利を挙げ、アメリカ合衆国下院では議席を伸ばし、上院では多数党となった。12年間続いた共和党の治世は終わり、その後の20年間に及ぶ民主党のホワイトハウス支配が始まった。1932年まで、1860年のエイブラハム・リンカーン大統領選出以来、共和党は過去72年間のうち56年間大統領を出し続けていた。1932年以降、民主党は36年間のうち28年間大統領を出し続けることになった。その後の1968年の大統領選挙で、共和党を是とする新しい枠組みが作られた。ルーズベルトが獲得した票は、1928年のアル・スミスより800万票近く多く、増加率は52%だった。フーヴァーの一般選挙における得票は1928年より26%減った。さらに弱小政党への票が劇的に増加した。社会党は230%増加し(ノーマン・トーマス自身の選挙でも最高票)、共産党は121%、禁酒党は305%、社会主義労働者党は57%増加した。
フーヴァーが17.76%差で敗れたことは今日まで現職の大統領としては、1912年のウィリアム・タフトに次ぐ2番目に大きな得票率差による敗北となっている。
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青字は民主党、赤字は共和党が勝利したことを示す。
得票率差5%未満 (選挙人数74):
得票率差5%以上10%未満 (選挙人数64):
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