鬱陵島(ウルルンとう、ウルルンド[1]、韓: 울릉도)は、日本海に位置し、大韓民国慶尚北道鬱陵郡に属する火山島である。
朝鮮半島の竹辺(蔚珍郡)から東に140 km沖合いに位置する。この島の最高峰は聖人峯(ソンインボン、성인봉)で標高984 m。人口は9128人(2020)[2]。面積は73.150 km2[3]で耕地面積は畑が12.40 km2、水田が0.5 km2、林野55.5 km2。
島全体が火山帯のため海岸の多くが絶壁(西南と東南の海岸は90 mの崖)であり港湾開発は難しいが、2018年末に全長44.2 kmの一周道路が開通(路面は一部工事中)した。島内のほとんどの道路は制限時速40 kmでネスジョントンネル区間のみ時速60 kmとなっている。
平地が少なく傾斜が激しい山道で積雪も多いため、ほとんどのタクシーがSUVである。また、駐車場が不足しており、いつでも動かせるように停車中でも車内にキーを置く習慣(車を持ち出せず盗難の恐れがないため)がある。2019年の車両数は5840台で内243台が電気自動車となっている。鬱陵郡は電気自動車の購入に補助金1900万ウォン(うち国費900万)を支給しており、毎年100台分の予算を確保しつつ2029年までに自動車の20%を電気自動車とする計画である[4]。
韓国で最も嵐日数が多く、豪雪地帯である。代表的な植生は香木・白樺。ハマナス・島野菊など[5]。主島の他、観音島、竹嶼と複数の岩島からなる。
第一次産業(農業・漁業)が中心で、二次産業は非常に少ない。他、観光業が比較的発達している[5]。住民は約1万人で、4割が漁業、2割が農業に従事している[要出典]。近年はイカの不漁や自然災害、教育環境を理由に人口は減少傾向にある[5][6][2]。
主な農作物は、ジャガイモ・トウモロコシ・野菜・豆・栗・かぼちゃ、畜産は韓牛(ハーブ牛、鬱陵薬牛〜ウルルンヤクソ)・ヤギなど、海産は海苔・わかめ・ムール貝・イカ・サンマ・スケトウダラ・フジツボなど。得にイカは東南アジアに輸出されるが漁獲高が減少[5]している。他野草として、シャク、ギョウジャニンニク(명이[7])、ゼンマイ、ヤマブキショウ、シラヤマギク、ゴマナ、ツルニンジンなどが特産[8]。 特に栽培ハーブとしてタケシマシシウド(別名竹島菜 セリ科の植物、韓国名섬바디)[9]は輸出もされている[5]。
陸地のかぼちゃより果肉が厚く重い鬱陵島かぼちゃを30%用い、トウモロコシを蒸して袋に入れ絞ったものと、蒸したかぼちゃ、麦芽を入れて5時間煮る。蜜状になったらコーンスターチを加え粘度を調整し板状に成型し固める[10]。
江戸期から明治10年代までの日本名は「竹島」または「磯竹島」、明治中期から現代の竹島との名称の入れ替わりにより「松島」とも呼ばれた[11] [12]。近代になって西洋においては「Dagelet」などと呼ばれていた。最大の付属島は島の北東に位置する竹嶼(日本が領有権を主張する竹島とは異なる)、他に観光地となっている観音島などがある。また、島全体が豪雪地帯となっている。
三国史記によると、鬱陵島は于山国として独立していたが、512年に朝鮮本土の国(新羅)に服属させられ、11世紀初頭には女真の侵攻によって滅びたと考えられている。その後、女真が滅びると朝鮮(高麗)の支配下となったが、この島は朝鮮本土より遠隔地の海上にあり監察使が頻繁に来ることができないため、兵役や税を逃れる者も本土より多数移住した。朝鮮王朝時代の記録によれば、晴れた日には鬱陵島が望洋亭や召公臺など、朝鮮半島の東岸部から見えるとの記載がある。
平安時代の『権記』、『本朝麗藻』などに、寛弘元年(1004年)「しらぎのうるまの島の人」の因幡漂着と送還が記述されている。 この島は本朝麗藻で「迂陵島」とされ、現在の鬱陵島であることは文献史学、古典文学などの研究者には定説である。日本語の通じない異邦人の到来は当時の京都でも話題となり、歌人藤原公任が題材として歌を詠み千載和歌集に載せられたことで後の世にも知られた。
[詞書]うるまのしまの人のここにはなたれきて、ここの人のものいふをききしらてなんあるといふころ、返ことせぬ女につかはしける (うるまの島の人が日本に漂流してきて、日本人の言葉を聞いてもわからないでいるという評判の頃に、返歌をしない女に送った歌) おほつかなうるまの島の人なれやわかことのはをしらぬかほなる (心もとないことだ。うるまの島の人だからだろうか、わたしの贈った和歌に知らぬ顔をしているのは)—千載和歌集 巻第十一 六五七
(うるまの島の人が日本に漂流してきて、日本人の言葉を聞いてもわからないでいるという評判の頃に、返歌をしない女に送った歌)
おほつかなうるまの島の人なれやわかことのはをしらぬかほなる
これが後に何処とも知れぬ辺境の異邦人の島の代名詞となり、室町時代には、当時の琉球国が室町幕府に遣使し、本土との交易を行ったころから、辺境の島としての「うるま」が沖縄島を指すようになった。あくまでも日本本土の文人たちによるもので、当の琉球人の知名度はなかった呼び名であるが、明治時代以降の沖縄県では県民にも沖縄の雅称として認められる名となった。現代の沖縄県で「うるま」の語源は沖縄方言の「珊瑚の島」(「ウル(珊瑚)」「マ(島)」)とされるが、明治以降に後付けされた民間語源に過ぎない[13][14]。
13世紀から16世紀にかけて「倭寇」(朝鮮本土や中国沿岸部を劫掠した海賊)は鬱陵島を拠点に朝鮮本土を襲ったり、鬱陵島の島民までもが倭寇を装い(仮倭という[15])、半島本土を襲うことがあった。
李氏朝鮮(1392年〜1897年)は成立前後より、これを脅威とみなし、1417年、太宗は対策として、同島の居住者に本土への移住を命じた(いわゆる「空島政策」)。
この後、1881年まで460年以上に渡って同島は公式には無人島となった(しかし朝鮮から密航する者は後をたたなかった)。
1618年(元和4年)5月16日、江戸幕府は鳥取藩主池田光政(松平新太郎)にあてて伯耆国米子(現、鳥取県 米子市)の商人、大谷・村川の両氏に対し、鬱陵島(当時、竹島)への渡海免許をあたえ、将軍家の家紋を打ち出した船印を立てることを許可した[16]。幕府はまた鬱陵島で林業や漁猟を行う許可も与えていた[17]。これは、両商人が鬱陵島の独占的経営を幕府公認でおこなっていたことを意味する[16]。
上述のように、隠岐の漁師などが空島であった鬱陵島へおもむいて海産物や竹などを採取し、これを独占的に米子商人が取引することは幕府によって認められていた。このとき朝鮮本土より密漁に来ていた朝鮮人を見つけ日本へ連行し、幕府が李氏朝鮮に対し抗議した。これに対し朝鮮は歴史的に自国領であるとして反発した。
この後、日朝間で長期間論争が続いたが、1697年(元禄10年)1月、江戸幕府の5代将軍徳川綱吉は、日本人の鬱陵島への出漁を禁じる措置をとり、その旨を李氏朝鮮に伝えた。こうして、日本の漁師たちが幕府の許可を得て鬱陵島に渡航することはなくなった。
1745年(英祖21年)に成稿した李孟休の『春官志』には、「蓋しこの島、その竹を産するを以ての故に竹島と謂い。三峯ありてか三峯島と謂う。于山、羽陵、蔚陵、武陵、磯竹島に至りては、皆、音号転訛して然るなり」とあり、古くは竹島・三峯島・于山・羽陵・蔚陵・武陵・磯竹島などとも呼ばれ、竹を産していたことが分かる。
1787年、フランスの探検家ラ・ペルーズ伯ジャン=フランソワ・ド・ガローが鬱陵島に到着して、乗船するブッソール号の天文観測士ジョセフ・ルポート・ダジュレー(Joseph Lepaute Dagelet)にちなんで「ダジュレー(Dagelet)島」と名付けた[18]。また1864年にフランス海軍省海図局が地図を作製する際に、付属島の竹嶼を「ブッソール島」と命名した。
1789年にはイギリスの探検家ジェイムズ・コルネット(英語版)も対馬海峡から日本海に入り、その後、北上して鬱陵島を「発見」したが、彼はこの島を「アルゴノート(Argonaut)島」と命名した[18]。しかし、コルネットが測定した鬱陵島の経緯度には測量ミスにより実際の位置とのズレがあったため、その後、ヨーロッパで作成された地図には、鬱陵島の北西に別の島があるかのように記載されることとなった[18][注釈 1]。そのため、1840年頃から、西洋や日本では島名の混乱により鬱陵島を「ダジュレー島/松島」と呼んでいた。
李氏朝鮮は長期間鬱陵島に対し無人政策をとっていたが渡島するものが後をたたなかった。日本人も同様で1882年から1898年には既に居住して伐木に従事する日本人が多くあった。[19]
朝鮮人は主に農業を営み、日本人は製材業や漁業を営んだ。定期的に入港する和船で米などが輸入され島で収穫した大豆との物々交換を通じて[23]両者は交易した。
1952年に発効したサンフランシスコ平和条約により、日本は済州島、巨文島とともに鬱陵島の領有を放棄した(なお、竹島の領有権についてはこの条約に直接明記されていない)。同条約で日本政府は朝鮮の独立を認めたため、以降、日本政府は鬱陵島は朝鮮に帰属するものとして扱った。
当初は鬱陵島民の生業は農業が主体であったが、現在は漁業の島になっている。また注目されていなかったことが却って自然保護に繋がりエコツーリズムも盛んとなっている
2018年末に全長44.2 kmの一周道路が開通(路面は一部工事中)した。しかし2020年の台風9号の影響で沿岸部に大きな被害[34]があり4つの区間で通行止めとなった。沿岸のテトラポッドがトンネル内を塞いだり、防波堤や路面が波にさらわれて通行できない状況となった。
行政府は島内交通の電力化を推進している[35]。電気自動車の購入助成金(最大3200ウォン[36])を出し民間普及を後押ししている。この事業により2020年までに新たに346台のEVが普及した[37]。また、韓国のポスコグループ傘下でITサービスを手掛けるポスコICTが島内8箇所にEV充電器22基を設置[38]している。
大韓民国慶尚北道浦項市から約217 km、船で3時間かかる。他に江原特別自治道東海市墨湖からも定期船航路がある。
鬱陵島、独島と蔚珍後浦項をつなぐ航路には、フラワー号(388トン、定員443人 JHフェリー)が運行中で2時間20分と最短距離で結ぶ。大型船の運行が停止している中、小型船での定期運行は船酔いへの不満が利用者から出ており最短時間であることが利点となっている[39]。
大型船の定期運行は2019年大型客船サンフラワー号(2394トン、定員920人 大邸海運)が船齢25年となり終了したままである。以後、後継事業者の誘致・選定をすすめているが、流札や事業者不適格などで却下され再開が実現していない。(2021年現在)
2008年、水陸両用機により、浦項空港などから航空機を就航させる計画があり[40][41]、事業推進にあたって滑走路建設が並行して提案された[42]。2009年、独島の防衛力強化も含め空港開発を大統領選の公約としたハンナラ党により鬱陵空港建設計画が本格化することになった[43]。
鬱陵空港が2020年12月6日に着工され、2025年開港予定である。定員50名の小型航空機が就航する1,200 mの滑走路とターミナルを整備し大邱や浦項まで40 - 50分で結ぶ計画である[44]。
他に海軍部隊ヘリポート(沿岸部)および空軍部隊ヘリポート(内陸部)がある。傷病者の緊急輸送などのためにも使用されるが本来は慶北消防航空隊がその任を負う[45]。しかし消防隊のヘリが事故により不足しており、現在は海洋警察庁のヘリと警備艦により本島への緊急搬送を行なっている[46]。
今から約10,300年前に鬱陵島は大規模な噴火を起こしたことが明らかになっている[56]。このときの噴火の火山灰は鬱陵島から東南東方向に長軸を持ち、日本海や本州における広域テフラの一つ(鬱陵隠岐 (U-Oki))として年代測定の材料の一つとして使われている[57]。最新の噴火は約5,000年前で、この時にアルボン溶岩ドームを形成した[58]。
鬱陵島では、滑走路長1200メートルの空港を2025年に開港する予定で建設する計画が立てられている(鬱陵空港)。建設期間は5年、建設費は6400億ウォンとみている。
1970年に朴正煕大統領が最初に空港の妥当性の調査をしていた。
2010年12月20日、KDI(Korea Development Institute 韓国開発研究院)は鬱陵島の空港の経済性がない(B / C 0.77、AHP0.43)という結論を下した[59]。鬱陵郡守はこれに対して異議を唱えた。
2011年1月5日、国土海洋部は、第4次空港開発中長期総合計画(2011年 - 2015年)を策定し、官報に告示。ここに鬱陵島空港の建設が含まれていた。ボンバルディア社製Q300モデルやATR社のATR42など、50人乗り旅客機が運航できるとみている。2030年になれば、年間100万人程度の航空需要で、経済性は十分だと予測した[60]。2012年、予備妥当性調査を再度実施したが経済性分析(通常1.0以上で妥当)は6月にB / C 0.38、10月にB / C 0.70とされ、実現が遠のいた。[59]
2013年7月8日、鬱陵空港建設事業が企画財務部の予備妥当性調査(B / C 1.19、AHP 0.655)を通過[61]。B / Cを中国人による観光の増大が、AHPを日本との領有権紛争がそれぞれ押し上げた形。[62][63]
2015年11月24日、2021年の開港を目指し第一期工事(2182億ウォン)の入札が公告された[64]。第二期工事は2869億ウォンの予定(総予算5805億ウォン)だったが1度目の入札過程でポスコエンジニアリングによる地質調査が不十分で追加事業費が最低600億必要と判明しポスコ建設、大林(テムリン)産業など入札参加企業が相次いで辞退した[65]。5月30日に再公告したが、滑走路建設の埋め立て岩石(島内至近のもの)の強度不足が明らかで追加工事費(岩石の採取と運搬など)が600~800億ウォンと予想され、期限である6月14日までに事前資格審査申請する企業が一つもなく入札が撤回された[66]。[67]。
2017年11月15日、釜山地方航空庁は、他の場所の岩石を埋立に使うコストを避けコンクリート構造物を使用する方式を適用[68]。
2019年5月1日、2025年の開港を目指し、政府は発注依頼計画を公示、事業費6633億ウォンに増額し策定。同年12月、大林産業コンソーシアムが選定され基本設計技術提案と実施設計へ。2020年7月、大林産業コンソーシアムとの契約が締結され同年11月27日着工。総事業費は6651億ウォン[69]。
鬱陵島から東南東へ約90 kmのところには、日韓で領土問題となっている竹島(韓国名:独島)がある。現在、韓国がこの島を自国領であるとして、鬱陵郡に属する形で実効支配しているが、これに対して日本は「不法占拠」として抗議している。
竹島へは2005年3月28日より、鬱陵島の道洞港から大亜高速海運によって毎日観光船が運航され、日本人を含め外国人も乗船できる。竹島では、観光客は韓国が建設したコンクリート製の埠頭には上陸できるが、領土である岩には韓国人であっても足を踏み入れられない。
2005年6月1日、鬱陵郡は、旅客船会社が入島定員(1日140名)を守らなかったとして竹島の出入を無期限中断させた。同年3月24日から竹島への出入が許可制から申告制に変わり旅客線会社(独島観光海運と大亜高速海運)が事実(1回に70人まで、毎日140人まで)を通知することになっていた。秩序維持と竹島保護のための出入中断までに郡の集計では5,954人が島に上陸したという[70]。
竹島への船の発着場でもある道洞の港や船には、竹島が韓国領であることをアピールする巨大な看板などが並び、「独島」を冠した店名の食堂や土産物店などが林立している。道洞港から徒歩約15分の道洞薬水公園内には独島博物館があり、ここよりケーブルカーで登った展望台(標高317 m)からは、晴天で空気が澄んでいれば、双眼鏡で竹島をかすかに望むことができる。この独島博物館は竹島の韓国領有をアピールするための博物館で、韓国のサムスングループの会長が国に寄付し、鬱陵郡が運営している。
竹島は鬱陵島の標高約200 m以下では水平線の下に隠れるため海岸付近からは見ることはできないが、晴天で空気が澄んでいるときに高い山の中腹まで登れば、肉眼でもかすかに見ることができる(但し、肉眼で確認できるチャンスは年間に数日と言われている)。竹島(独島)を肉眼で見ることができるので「古来より朝鮮人が日本人より先に独島を発見していた」として、韓国側の竹島領有の根拠の一つとしている。
1964年には、江戸時代に発生した竹島一件の原因となった漁民安龍福を顕彰する「安龍福将軍忠魂碑」が鬱陵島に建立される[71](安龍福は将軍ではないが韓国では将軍と呼称されることが多い。)。
2011年8月1日、自民党の国会議員である新藤義孝、稲田朋美、佐藤正久が鬱陵島の独島博物館などを視察するため韓国に向かったが、金浦空港で入国拒否され日本に引き返した[72]。その前日の7月31日には、3人と合流する予定だった下條正男拓殖大教授も仁川空港で入国拒否された[73]。
上記のような事例があったことから、日本人が鬱陵島へ渡航する際には、出港地において韓国警察による取り調べ(渡航目的)を受けることになる。また、竹島航路を運営するフェリー会社は、日本人と判明した者へのチケット販売を行わない旨を告知している[74]。
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