高橋義次

高橋義次

高橋 義次(たかはし よしつぐ、1882年明治15年)8月23日[1] - 1969年昭和44年)2月2日[2])は、日本の衆議院議員立憲民政党)。弁護士

経歴

宮城県栗原郡畑岡村(現在の栗原市)出身[1]1904年(明治37年)に宮城県師範学校を卒業した後、5年間小学校訓導を務めていたが、日本大学英法科に入学し、1915年大正4年)に卒業した[3]1917年(大正6年)に弁護士試験に合格して事務所を開き[3]東京弁護士会常議員、日本弁護士協会理事を務めた[1]。また芝区会議員、同議長、東京市会議員[1]、同参事会員[4]に選出された。

1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。1934年(昭和9年)、第2次東京市会疑獄(瓦斯疑獄)により東京地方裁判所で懲役4ヵ月・追徴金1500円の判決を受けたが[5]、翌年の控訴審で無罪判決を受けた[6]。その後、第20回衆議院議員総選挙で再選を果たした。1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙では大政翼賛会の推薦を受けたが落選した。

戦後は公職追放となる[7]が、極東国際軍事裁判で海軍の主任弁護人を務め、追放解除後に東京弁護士会会長、日本弁護士連合会会長を歴任した[2]。墓所は多磨霊園(19-1-7)

脚注

  1. ^ a b c d 『宮城県名士宝鑑』p.365
  2. ^ a b 『政治家人名事典』
  3. ^ a b 『東京弁護士名家録』pp.48-49
  4. ^ 『人事興信録』
  5. ^ 『昭和10年度版 時事年鑑』時事新報社、1934年、p.403
  6. ^ 『昭和11年度版 時事年鑑』時事新報社、1934年、p.405
  7. ^ 公職追放の該当事項は「推薦議員」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、624頁。NDLJP:1276156 

参考文献

  • 佐藤幸平『東京弁護士名家録 第一巻』日本法曹要覧発行所、1925年。 
  • 『宮城県名士宝鑑』宮城県名士宝鑑発刊事務所、1940年。 
  • 人事興信所編『人事興信録 第14版(下)』人事興信所、1943年。 
  • 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年。 
  • 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。