霊王[1](れいおう、? - 紀元前545年)は、中国の春秋時代の周の王。姓は姫、名は泄心。
生涯
周の簡王の子として生まれた[2]。紀元前572年9月、簡王が死去する[3]と、霊王は即位した[2]。
紀元前568年、霊王は王叔陳生を晋に派遣して、周室が戎に圧迫されていると訴えさせた。晋は王叔陳生を拘束した[4]。
紀元前563年、王叔陳生と伯輿が政権を争ったが、霊王は伯輿に味方した。王叔陳生は晋に亡命した[5]。
紀元前561年、霊王は斉に王后を出すよう求めた[6]。
紀元前552年、晋の欒盈が成周を通過したとき、成周の西郊で略奪に遭った。欒盈が周の行人に訴えると、霊王は司徒に命じて略奪品を返還させ、欒盈を送り出させた[7]。紀元前549年、斉に郟を築城させた[8]。紀元前547年、晋の韓起と面会した[9]。
紀元前545年11月癸巳、霊王は死去し[10]、子の姫貴(景王)が即位した[2]。
霊王の子に太子晋・王子佞夫(中国語版)・姫貴(景王)・姫還・姫姑・姫潑・姫弱・姫鬷・姫延・姫定・姫稠・姫趙車らがいたが、その多くは戦乱に巻き込まれて殺害された。
脚注
- ^ 『史記集解』周本紀所引『皇覧』によると、霊王は生まれたときから髭があり、神々しかったことから、諡を霊王としたという。
- ^ a b c 『史記』周本紀
- ^ 『春秋』襄公元年
- ^ 『春秋左氏伝』襄公5年
- ^ 『春秋左氏伝』襄公10年
- ^ 『春秋左氏伝』襄公12年
- ^ 『春秋左氏伝』襄公21年
- ^ 『春秋左氏伝』襄公24年
- ^ 『春秋左氏伝』襄公26年
- ^ 『春秋左氏伝』襄公28年