少昊(しょうこう)は、中国古代の五帝の一人。姓は己。氏は金天氏(鳳鳥氏、青陽氏、窮桑氏[1]、雲陽氏[2] とも称される)。名は摯(し。鷙・質とも作る)、または玄囂。号は「昊」(「皞」・「皓」・「顥」とも作る)、「少昊」(少昊とは太昊の徳行を継承したことによる命名)。
概要
黄帝の子(『路史』では孫とされる[3])、母は嫘祖。西海のほとりにあったと伝わる窮桑(きゅうそう。現在の山東省曲阜市)で生まれる[4]。『史記』五帝本紀には、蟜極の父・帝嚳の祖父にあたると記されている。五行の上では金徳・西方・白色を示すとされ、金天氏・白帝という称はそれに由来する。
東海の青陽に国をたて、のちに都を曲阜に置いたとされる。『春秋左氏伝』昭公十七年の項には、暦を作成し、官名を玄鳥氏、伯趙氏、青鳥氏、丹鳥氏など、鳥類の名で呼んだことが記載されている。
『神異経』では、四凶のひとつである窮奇(きゅうき)は少昊の子孫であるとしている[5]。
『三国史記』金庾信列伝によれば、新羅の武将金庾信は金官加羅国の王家の子孫であり、その始祖・首露王は少昊の子孫にあたる[6]。
窮桑
窮桑は高さ1万丈にもおよぶ桑の大木で、赤い葉をもち、1万年に一度長寿の効果のある果実をつけるとされる[4]。江水のほとりにたっていたと伝説には記されている。
仙女 皇娥の仕事は天宮で暮らす人々が使う織物を織る事であったが、あるとき仕事を休み天の川をいかだで下り、神木窮桑の木の下にたどり着き、そこで後の黄帝と出会い、少昊を生んだとされる[7]。
少昊陵
雲陽に葬られたという記述から、山東省曲阜市には少昊の陵墓であると考えられる丘陵があり「少昊陵」と称されている。清の時代の乾隆3年(1738年)に位置を移し現在のかたちに整備された[8]。中国ピラミッド(英語版)と呼ばれる形状の陵墓のひとつである。
脚注
- ^ 窮桑で生まれたことに拠る。『拾遺記』
- ^ 曲阜の雲陽に葬られたことに拠る。
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少昊青陽氏,名質,是為摯,其父曰清黄帝之第五子方嫘氏之生也。 — 羅泌、路史、巻一六
- ^ a b 袁珂『中国の神話伝説〈上〉』青土社、1993年4月1日、137-139頁。ISBN 479175221X。
- ^ 袁珂『中国の神話伝説〈上〉』青土社、1993年4月1日、142頁。ISBN 479175221X。
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金庾信,王京人也。十二世祖首露,不知何許人也。以後漢建武十八年壬寅,登龜峯,望駕洛九村,遂至其地開國,號曰加耶,後改為金官國。其子孫相承,至九世孫仇充,或云仇次休,於庾信為曾祖。羅人自謂少昊金天氏之後,故姓金。庾信碑亦云:「軒轅之裔,少昊之胤。」則南加耶始祖首露與新羅,同姓也。 — 三国史記、巻四十一
中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
- ^ 秦寛博 編『樹木の伝説』新紀元社、2011年7月29日。ISBN 4775303996。
- ^ 菟田茂丸『孔子廟参拝記』平凡社、1941年、101-102頁。
参考資料
- 『山海経』-「大荒東経」
- 『山海経』-「大荒南経」
- 『春秋命歴序』
- 『易緯稽覧図』
- 『逸周書』
- 『史記』
- 『春秋左氏伝』-昭公十七年
- 『曲阜県志』
関連項目