阿羅 健一(あら けんいち、 1944年〈昭和19年〉[1] - )は、日本の文筆家・近現代史研究家。
1980年代まで著述の際に畠中秀夫というペンネームも使っていたとされ、秦郁彦は同一テーマについて本名とペンネームを使って書き分けていたことを奇妙に感じている[2]。
「百人斬り訴訟を支援する会」会長[1]を経て、「中国の抗日記念館の不当な写真の撤去を求める国民の会」会長[1]、主権回復を目指す会顧問[1]、「田母神論文と自衛官の名誉を考える会」顧問[1]を務める。
略歴
宮城県仙台市出身[3]。宮城県仙台第二高等学校、東北大学文学部卒業[3]。1966年[1]からキングレコードに勤務[1]し、1984年にフリーとなる[1]。
主な著述活動
主に『正論』『諸君!』などにおいて論文を発表している。
『正論』1986年(昭和60年)5月号から翌年5月号までの13回の連載をまとめたものが、『聞き書 南京事件 日本人の見た南京虐殺事件』(図書出版社)として出版された。なお2002年(平成14年)に絶版となった前著を一部加筆編集され『「南京事件」日本人48人の証言』(小学館)として再版された。本書に関しては、「1937年当時の南京にいた関係者の体験談を集めた第一級の資料である。ジャーナリズムという観点からみて、極めて基本に忠実なアプローチだといえる。虐殺と言われるようなことは本当にあったのか。それらの結論は、本書を読めば自ずと見えてくる」との評価[4]もあれば、「クロを証言する人は避け、シロと主張する人だけをまわって、全体としてシロと結論付ける戦術が丸見え」との評価[5]もある。また、雑誌連載から書籍化、単行本から文庫化がされる際に、自説に都合の悪い証言が削除されているという指摘もある[6]。
上記著作が代表作であるが、先に出された『聞き書 南京事件』では、あとがきで、証言をつなぎ合わせ当時の南京を作り、自ずと南京事件の真相が浮かび上がってくるはずと書き、中立的立場に立つかのように書いているが、後の『「南京事件」日本人48人の証言』では、はっきり虐殺数を少なく、事件を小さく評価する立場に立っている。
両書の特徴・問題点としては以下の通り。
①先立つ『聞き書 南京事件』において、「数千人の生存者がいると思われる兵士の証言を全て集めるのは不可能、一部だけにすると恣意的になるとして、それらをカットすると軍関係者は150人くらいか、報道関係者・外交関係者を入れると500人くらいか」として、さながら一般兵士以外の生存者全員に当たろうとしているかのような書き方をしているが、どのような方法で対象者を探したか、その結果として実際には当時何人の関係者がいたか、うち何人がリストアップでき、さらに何人がそれぞれどのような理由で連絡が取れなかったか等については一切記さず、単に67人と連絡が取れたとしている[7]。このことが、実際には前述の都合の良い人物に順にインタビューしただけではないかとの批判に繋がっている。また、秦郁彦は自身の経験として、概して将校等職業軍人ほど口が固く、報道・外交関係者は現場にいないことが多く、真相を語るのは応召兵が多いとして、軍関係について幹部のみを対象にしたことを批判している[8]。
②全般に、虐殺否定につながる話には追究が甘く、また、あまり否定論に不都合な話が出ないよう質問を選んでいるようにも見える。対して、以前より知られていた虐殺証言等については、同僚など周囲にいた者から否定的な発言を引き出せないかを試みようとするための証言収集であるようにも見える。場合によっては、質問の元となっている虐殺存在の証言について、その信頼性を減じようとしてか、事件事実よりおおもとの発言者の人格批判になりかねない発言をことさら引き出し、取りあげようとしているようにも見える。阿羅本人自らが、証言が他人の誹謗のように読めるならば、証言者は躊躇し黙したのだが、自分が証言を強要したためと述べているほどである[7]。
③証言者の証言として、具体的な何らかの事件のことか、大虐殺自体のことであるのか、はっきりしない、「いわれるような残虐行為はなかった」、「話は信じていない」といったような曖昧な表現がしばしば見られる。
④戦後、石川達三(『生きてゐる兵隊』の作者)は二度ほど読売新聞のインタビューを受け、遅れて入ったため、犯行自体は見ていないものの、南京事件について聞いたこと、その余燼や死体を見たことを証言している。にもかかわらず、このことを知らなかったのか、「大殺戮の痕跡は一片もみていない。あの話は今も信じていない。」という手紙を生前に受け取っていたと、石川の死後に出版された同書で書いている[7]。
その他、他人の出版物を巡ってであるが、事件の証言を収集している林伯耀から、阿羅は自身の意に染まぬ証言に対しては、証言をキチンと拾うことよりも証言の揚げ足とりが多いこと、にもかかわらず、戦場の実相を知らず、寧ろ阿羅自身に誤りが多いこと等も指摘されている[9]。
なお、『【再検証】南京で本当は何が起こったのか』(徳間書店)では、1932年(昭和7年)4月29日の天長節(天皇誕生日)に上海虹口公園で発生した上海天長節爆弾事件テロ実行犯である尹奉吉を事件前にかくまった人物が、ジョージ・アシュモア・フィッチであったと主張している。
著書
共著・監修
寄稿
- 「架空だった南京大虐殺の証拠 謎の「崇善堂」とその実態」『正論』昭和60年(1985年)10月号
- 「南京事件『従軍日記』のまぼろし」『諸君』平成8年(1996年)7月号
- 「反日プロパガンダに使われる日本の“謝罪金” 村山元首相がばらまいた金の行方」『正論』平成11年(1999年)6月号
- 《「南京事件」今改めて見直すべき日本人48人の証言の「真実」》『SAPIO』平成14年(2002年)2月27日号
- 「『南京戦・元兵士102人の証言』のデタラメさ」『正論』平成14年(2002年)11月号
- 「百人斬り訴訟レポート 名誉回復のその日まで」『正論』平成15年(2003年)12月号
- 「『中国の南京「虐殺」宣伝に風穴を』」日本青年協議会機関誌『祖国と青年』平成15年(2003年)2月号
脚注
- ^ a b c d e f g h “阿羅健一(あら・けんいち)”. PHP研究所 (2013年). 2019年9月5日閲覧。
- ^ 『昭和史の謎を追う 上』(株)文芸春秋、1992年12月10日、181頁。
- ^ a b “1/26真実の歴史を解き明かす!【『南京虐殺の検証』―― 南京で本当は何が起こったのか】公開講演会開催 !”. 幸福実現党 - The Happiness Realization Party. 2023年9月9日閲覧。
- ^ 櫻井よしこ(推薦文)『「南京事件」日本人48人の証言』
- ^ 秦郁彦『昭和史の謎を追う』文藝春秋、昭和58年(1993年)
- ^ 笠原十九司『南京事件論争史』平凡社新書、平成19年(2007年)
- ^ a b c 『聞き書 南京事件』(2版)(株)図書出版社、1987年12月25日、298-299,129,297頁。
- ^ 秦郁彦『昭和史の謎を追う』 上、文芸春秋〈文春文庫〉、1999年12月10日、181-182頁。
- ^ 松岡環『南京戦 切りさかれた受難者の魂』(株)社会評論社、2003年8月15日、385-388頁。
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