重水 (じゅうすい、英語 : heavy water )とは、質量数 の大きい同位体 の水分子を多く含み、通常の水 より比重 の大きい水のことである。重水に対して通常の水 (1 H2 16 O ) を軽水 と呼ぶ。重水素と軽水素 は電子状態が同じであるため、重水と軽水の化学的性質は似通っている。しかし質量が異なるので、物理的性質は異なる。
通常の水は 1 H2 16 O であるが、重水は水素 の同位体である重水素 (デューテリウム: D 、2 H )や三重水素 (トリチウム: T、3 H )、酸素の同位体 17 O や 18 O などを含む。なお通常の水はH2 16 O が99.76パーセントからなるが、H2 18 O (0.17パーセント)、H2 17 O (0.037パーセント)、HD 16 O (0.032パーセント)などの水もわずかながら含まれている。
狭義には化学式 D2 O 、すなわち重水素 二つと質量数 16の酸素 によりなる水のことを言い、単に「重水」と言った場合はこれを指すことが多い。別名に酸化重水素 (deuterium oxide, Water-d2) など。自然界では、D2 O としての重水はほとんど存在せず、重水はD H O の分子式(半重水)として存在する。
物理的性質
※以下の値は、すべて101.325キロパスカル (1気圧 )におけるものである。
D2 O で表される重水の融点 は摂氏 3.82度(276.97ケルビン )、沸点 は摂氏101.43度(374.58ケルビン)である。また摂氏20度における密度 は、1.105グラム毎立法センチメートル である。摂氏20度における粘性 は 0.00125パスカル秒 である。
O-D結合は同位体効果 により、D2 O はH2 O よりも電気分解 の速度が遅い。このような軽水と重水の性質の違いを利用して、重水をわずかに含む天然の水から濃縮 、分離 することができる。
なお重水素 は三重水素 とは異なり放射性ではないため、重水 (D2 O ) もトリチウム水 (T2 O ) とは異なり放射性ではない[ 4] [ 5] 。
性質 [ 6]
単位または条件
D2 O (重水)
D H O (半重水)
H2 O (軽水=ウィーン標準平均海水 )
融点
°C
3.82
2.04
0.02519
沸点
°C
101.4
100.7
約99.9743
密度
20 °C , g/mL
1.1056
1.054
0.99997495
最大密度となる温度
°C
11.6
3.984
粘性
20 °C , centipoise
1.25
1.1248
1.005
表面張力
25 °C , dyn·cm
71.87
71.93
71.98
融解熱
cal/mol
1515
1487
1436
気化熱
cal/mol
10864
10515
水素イオン指数
25°C ,pH
7.43
7.226
6.9996
生体への影響
重水は、物質の溶解度 、電気伝導度 、電離度 などの物性 や反応速度が軽水とは異なる値を示す。そのため、飲料水 などとして大量に摂取すると酵素反応 などの生体内反応に失調をきたす。哺乳類 の場合25パーセント重水は不妊 を引き起こし、50パーセント重水は致死的 である[ 5] 。人間の場合、水分摂取量の10パーセントを超えると問題が生じるとの推測がある[ 4] 。重水の中では魚類も生きることができず[ 注 1] 、植物の発芽や成長も停止する[ 4] 。一方、藻類 やバクテリア は100パーセント重水の中でも生息可能である[ 5] 。
重水はまた、生物の概日リズム に大きな影響を与える[ 注 2] 。単細胞生物から植物、昆虫、鳥類、マウスに至るまで重水の摂取によって概日リズムが長くなることが確認されており、細胞における概日リズム発生メカニズムの研究に用いられている。
人間が重水を舐めると甘く 感じ、軽水と明確に区別することができる。重水が初めて分離されたころから重水は甘いという指摘がされており、2021年に発表された文献では、分子動力学法 シミュレーション、細胞単位での実験、マウスモデル、人間の被験者などを使った研究で、人間の甘みを感じるレセプター であるTAS1R2 (英語版 ) /TAS1R3 (英語版 ) に重水が作用して活性化することを明らかにし、人間にとって重水が確かに甘く感じるということを示した。一方でマウスにとっては甘く感じられないことも明らかとなっている。軽水と異なって重水がこの作用をもたらす理由については、2021年現在まだ解明されていない[ 11] 。
用途
重水は原子炉 の減速材 として使われる。一般に重水に限らず、水素には高速中性子 を熱中性子 に減速する能力(減速能)にすぐれる特性がある。水は水素を大量に含むため減速材として利用されるが、軽水は減速能とともに中性子 を吸収する能力も大きいことが問題となる。ウランの濃縮技術 が未発達だった初期の原子炉開発においては、軽水に次ぐ減速能を持ち軽水に比べて中性子吸収が少ない重水素からなる重水が減速材として使用された。核兵器 (原子爆弾 )の開発にも利用しうるため、第二次世界大戦 の頃から重水の生産設備は軍事的な防衛・攻撃目標として扱われていた(ノルスク・ハイドロ重水工場破壊工作 など)。
重水を利用する原子炉(重水炉 )は、現在では核兵器の製造に直結するウラン濃縮を行うことなく天然ウラン をそのまま核燃料に使用することができるCANDU炉 や、燃料ソースの多様化を求めた新型転換炉 などで使用されている。
なおこの減速材としての働きは、医療にも応用されている。すなわち放射線治療 において、エネルギーが高い高速粒子のままでは生体に対する悪影響が強すぎるので、減速中性子を利用する治療方法が提唱されている[ 12] 。中性子を軽水で減速すると中性子が軽水に吸収されてしまいビーム出力が弱くなるため、重水が減速材に使用される。
また、カナダ のサドベリー・ニュートリノ観測所 (SNO) では、ニュートリノ の検出に重水が利用されている。
他には、1 H-NMR 測定用の溶媒には、ロック(磁場 安定化機構)のため、および試料の軽水素からのシグナルを妨害しないように、重水などの重溶媒 が用いられる。
重水のみで作られた氷 は水に沈むので、手品 として使える。
脚注
^ Lewis (1934 , p. 152) によると、オタマジャクシ ・小魚および特定の原生生物は、92パーセント重水中では1 – 48時間で死滅したとの報告がある。
^ 概日リズムに影響を与える物質としては他に、2019年にGO289が報告されている[ 9] 。
出典
参考文献
書籍
論文
Lewis, Gilbert N. (1934-02-16). “The Biology of Heavy Water”. Science (AAAS ) 79 (2042). doi :10.1126/science.79.2042.151 .
Pittendrigh, C. S.; Caldarola, P. C.; Cosbey, E. S. (1973-07). “A Differential Effect of Heavy Water on Temperature-Dependent and Temperature-Compensated Aspects of the Circadian System of Drosophila pseudoobscura” . Proc. Natl. Acad. Sci. USA 70 (7): 2037–2041. Bibcode : 1973PNAS...70.2037P . doi :10.1073/pnas.70.7.2037 . PMC 433660 . PMID 4516204 . https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC433660/ .
千葉, 喜彦 「動物の概日測時機構」『計測と制御』第24巻第10号、計測自動制御学会、1985年10月、935-939頁、doi :10.11499/sicejl1962.24.935 。
石渡, 明弘「重水素発見の経緯と重水素標識による生体関連分子の化学研究への応用」『化学と教育』第61巻第8号、日本化学会 、2013年8月20日、400-403頁、doi :10.20665/kakyoshi.61.8_400 。
Oshima, Tsuyoshi; Niwa, Yoshimi; Kuwata, Keiko; Srivastava, Ashutosh; Hyoda, Tomoko; Tsuchiya, Yoshiki; Kumagai, Megumi; Tsuyuguchi, Masato et al. (2019-10-23). “Cell-based screen identifies a new potent and highly selective CK2 inhibitor for modulation of circadian rhythms and cancer cell growth”. Science Advances (AAAS ) 5 (1). doi :10.1126/sciadv.aau9060 .
関連項目