アイゼンハワーは1943年12月に地中海作戦戦域司令部から、ロンドンのキャンプ・グリフィス(英語版)で組織されたSHAEFへと転じた。ここに隣接した通りは、現在でもシーフ・ウェイ(Shaef Way)と呼ばれている。SHAEFの参謀らはCOSSAC(連合国軍最高司令官参謀長、Chife of Staff to the Supreme Commander Allied Forces)のサー・フレデリック・エッジワース・モーガン(英語版)中将とレイ・バーカー(英語版)少将によって立案されたオーバーロード作戦の外枠を受け取った[1]。COSSACに任命されたモーガンはアイゼンハワーと面会する前の1943年3月中頃にヨーロッパ侵攻計画を練りはじめ[2]、計画の最終策定版が1944年6月6日に実行された。計画はアイゼンハワーと、侵攻の初期段階における全地上部隊の指揮官であるバーナード・モントゴメリー大将により最終的な策定案へと形を変えていった。
ナチス・ドイツの降伏後、連合国軍の部局としてのSHAEFは1945年7月14日に解散したが、アメリカ軍においてはヨーロッパ戦域軍(USFET、US Forces, European Theater)が役割を引き継いだ[5]。USFETは1947年3月15日にヨーロッパ軍(EUCOM、European Command)と改称された[7]。
Winters, Major Dick, with Cole C. Kingseed (2006). Beyond Band of Brothers: The War Memoirs of Major Dick Winters. Berkley Hardcover. ISBN 978-0-425-20813-7., page 210.